3日前に学校へ授業料を振り込んだところ、その2日後にメールで「IDを発行するため、パスポートのコピーをFAXで送るか、スキャンしてメールで送ってほしい」と連絡がありました。そのため、スキャンしてメールで送ったところ、今日、学校から入学許可が下りました。 というわけで、いよいよビザ申請です。 カナダ大使館のホームページより、「就学許可証 申請ガイド及び申請書-IMM1294(PDF)」をダウンロードし、一通り書類に目を通しました。 【必要書類(学校がBCにあり、申請者が成人で日本国籍の場合)】(2004年12月版) 査証申請書。全ての必要事項を裏表とも英語又は仏語で記入し、日付け及び署名のあること。 申請料金$125.00又は¥10,700(オリジナルの銀行送金の控えを提出のこと。料金は結果の如何に関わらず返却不可)。 証明写真2枚(5×4cm、無背景3ヶ月以内に撮影したもので、裏面に名前と生年月日を記入のこと。スナップ写真は不可)。 カナダの学校からの入学許可書のコピー(入学期間、コースの詳細が明記されているもの)。 一ヵ月以内に発行された残高証明書(原本):学費、生活費、往復の旅費を支払うのに充分なもの(学費納入済みの場合は、学校発行の領収書のコピーを添付)。 パスポートのコピー:有効期限、氏名等記載されている頁。 返信用封筒(12×23cm定形内最大サイズ)。住所、氏名を明記の上、80円切手を貼る(就学許可通知書を電子メールで受け取りたい場合は、その旨を通知するフォーム)。 学歴及び職歴の詳細(業務内容、業務期間、就学期間、就学科目等)。 カナダにおける学習が申請者の将来にどのように関わっているかについての説明(できるだけ英語又は仏語で)。特定の用紙や書式は無し。 「就学許可通知書が電子メールで受け取れる」というのにはビックリしました。さすが、行政のインターネットサービスがとても進んだカナダです(5年前、ワーホリの期間延長手続きもネットで済ませてしまったような覚えが・・・)。 もう年末年始なので、仕事が休みの間に、申請料金の振込みや証明写真の撮影、学歴・職歴書とエッセイの準備をして、申請は年明けて落ち着いた頃に行いたいと思います。
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教育給付金を申請しました
昨日のことなのですが、ハローワークに行って、教育訓練給付金の申請をしてきました。 今通っている学校に入学したのは今から約1年前で、給付コースは先月25日で終了していました。ハローワークは平日の昼間しかやっておらず、その上、会社の近くのハローワークだったらちょっと仕事を抜け出して申請しに行けるのに、教育訓練給付金の申請は地元のハローワークでないとダメだということで、なかなか申請に行くことが出来ませんでした。 申請期限は、受講終了日の翌日から起算して1ヶ月以内で、気付いたら21日!申請期限まで、あと4日!焦って有給を取り、昨日、申請しに行ったというわけです。 申請に必要な書類は、 教育訓練給付金支給申請書(訓練コース終了後、学校からもらいました) 教育訓練終了証明書(これも、学校からもらいました) 領収書(これも、学校からもらいました) 本人・住所確認書類(運転免許証を持っていきました) 雇用保険被保険者証 返還金明細書(これも、学校からもらいました) 返還金振込み口座の銀行預金通帳(振込み先がシティバンクなので、月ごとに送られてくる明細書を持って行きました) の7つ。 実はこれがハローワークに行くのが初めてだったので、受付を終えてから名前を呼ばれるまでの間、掲示板の「失業保険不正受給者詳細(住所・名前は伏せてある)」を見たり、パソコンの求人検索などして、ちょっぴりエセ無職気分を満喫しました。 申請自体はすんなり通り、無事94,080円GET!振込みは1週間後ぐらいになるんだそうです。やったー(゚∀゚)! つつがなく申請を終え、ハローワークを出て駅に向かって歩いていたら、後ろから女の人に「すいませーん、ちょっといいですかぁー?」と声を掛けられました。「今、ハローワークから出てきましたよね?私、△△生命の△△という者ですが、お仕事探していらっしゃいますか?」と聞かれたので、「探していません。働いています」と答えたら、「あら、そうですか。どーも、すいませんでしたぁー」と言って、去っていきました。 スカウトなんて、19歳の時、歩道で信号待ちをしていたらフーゾクのスカウトマンに「月100万は確実。どう?」と言われたきりで久しぶり。あれから10年、今やスカウトは保険屋さんというのが、なんとも悲しいような、そうでないような、ビミョーな気分。 なにはともあれ、着実にひとつひとつ仕事が片付いていっています。
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高村光太郎「智恵子抄」
高村光太郎が一般的に、彫刻家として有名なのか詩人として有名なのかは分からないけど、私は完全に光太郎を「愛を詠う詩人」として認識しています。 タイトルにもなっている「智恵子」は、光太郎の妻です。絵画を通して知り合った光太郎と智恵子は恋愛期間を経て幸せな結婚をしますが、後に智恵子は精神を病み、自殺未遂を起こし、最後は光太郎を残して病気でこの世を去ります。 妻が狂ってもなお光太郎は智恵子を愛し、自分が狂ってもなお智恵子は光太郎を慕います。そんな状況で光太郎が、時には絶望を、時には変わらぬ愛を詠ったのがこの詩集です。 人を深く愛するということは、なんて辛いことなんだ、と思いました。でも、そこまで愛せる人と出会えて、光太郎は幸せだったんだろうなぁ、とも思いました。 「亡き人に」 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く 朝風は人のやうに私の五体をめざまし あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい 私は白いシイツをはねて腕をのばし 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる 今日が何であるのかをあなたはささやく 権威あるもののやうにあなたは立つ 私はあなたの子供となり あなたは私のうら若い母となる あなたはまだゐる其処にゐる あなたは万物となつて私に満ちる 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど あなたの愛は一切を無視して私をつつむ
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愛を乞わない人々
今日は、「自分の年齢(30歳)と同じ期間彼女がいない」という男の人に、酔っ払って「彼女を作れ!」と説教しました。 というのも理由があって、その子が「今のままで充分楽しい。彼女なんて作ったら、自分の時間を邪魔されそうでイヤだ」なんて言うからです。 一度も付き合ったことがないのに、それを「邪魔だ」と判断するのはいかがなものか。確かに「誰かと付き合う=他人が介在する」ことであり、他人が介在するということは何もかも自分の思い通りにならなくなるけど、人間一人で生きてるわけじゃないから、元々それが当たり前なのに。それどころか、実際付き合ってみると、我慢することより分かち合うことの方が多いと思うよ、きっと。 この子とはまた別に、知り合いにもう一人「彼女なんていらん」男がいます。変にプライドが高く、精神的な領域に他人が顔を突っ込むのを非常に嫌がる性格で、「必要以上に近づくなオーラ」をものすごい勢いで発しています。極端に失敗を怖れる傾向があるので、きっと他人にボロを見せるくらいなら距離を置いた方がいいと思っているのかな?私は「転んでもすぐ立ち直れば別にいいじゃーん(失敗を恐れるその姿勢こそ人として失敗してる)」と思うタイプなので、そういう考えはイマイチよく分からないのですが、きっと彼にとって誰とも付き合わない理由になるほど重要なことなんだと思います。 最近、こういう男子って多い?理屈が本能を侵食してるなんて・・・。
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LIVE FOREVER(2002)
この映画は、95年8月のoasis VS blurのチャート戦争の深意、97年の総選挙にトニー・ブレア率いる労働党の選挙運動に彼らが協力した(利用された)ことに対する後悔の念などを、当事者達が当時の現象を交えて冷静に語ったドキュメンタリーです。ノエルが成功者として雄弁に出来事を分析し、デーモンがシニカルに後悔の念を吐く中で、リアムだけが相変わらず「んなこた、忘れた」「よく覚えてねえな」「若者よ、俺様を目指せ」なんて言っているのが、非常にツボにハマってます。(成長しろよ!) 観ながら思ったのは、「みんな、老けたなぁ」ということ。リアムも、デーモンも、ジャーヴィスも(ノエルは当時から見た目オヤジ)。あれから10年。当然といえば、当然だけどね。 1994年、当時私はタワーレコードで働いてました。多分、最初はBlurだったと思う。グランジでマイナー調の暗い音が流行った直後に、突然出てきた“ほぼ理想に近い”POPな音。その直後にoasisがデビュー、ジャーヴィス・コッカーが妙なフリで“Common People”を歌い、ジャンキー映画「トレインスポッティング」が公開。MODSに特別なレスペクトを持っていた私は、イギリスらしさをアピールする“ブリット・ポップ”に、すぐ夢中になりました。 しかし97年、いろいろあって音楽業界に見切りをつけて転職したため、「仕事として、リリースされる全ての音を把握する」から「自分の好きな音楽だけを聴く」ようになり、自然と“ブリット・ポップ”から離れていきました。 そのため、その後の“凋落”は知りませんでした。このドキュメンタリーを観て、ちょっとショックを受けてます。諸行無常とは、このことかと。私が生きた時代、音楽が、バブルのように弾けてしまっていたなんて。はー。 Anyway、あれから10年経ったけど、今でもoasisの1st、2ndを聴くと初めて聴いた時の感動がまるでフラッシュバックのように鮮明に思い出されます。これこそ、「LIVE FOREVER」。当時の眩しさを忘れない限り、感動は自分の中で永遠に生き続けることが、せめてもの救いです。
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カナダ行きの航空券を手配しました
カナダ行きの航空券が取れました! フライトスケジュールはこちら 2005/2/22 09:30/名古屋/中華航空/CI151 ↓ 2005/2/22 11:50/台北 2005/2/22 14:15/台北/中華航空/CI32 ↓ 2005/2/22 08:25/バンクーバー 2月22日の朝に日本を出発し、その日の朝にバンクーバーに到着します。時差のため、私にとってこの日は1日41時間になる予定。前の日徹夜&飛行機の中で爆睡して、到着初日を時差でボケボケにならないようにしたいです。 ちなみに料金は、 片道航空券 \53,800 日本空港税 \750 航空保険料 \860 発券手数料2%+センディング料 \1,076 合計 \56,486 オフシーズンだから激安!
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ダライ・ラマ「ダライ・ラマ自伝」
チベットの宗教的、政治的最高指導者として精力的に平和活動を行い、1989年にはその功績を称えられてノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマの波乱に満ちた半生を、ダライ・ラマ自身が綴った自伝本です。「ダライ・ラマとは何か?」「チベット仏教とは何か?」を分かりやすく紹介しつつも、主な内容は1950年に起こった中国によるチベット侵略と、その後の人民解放軍によるチベット人虐殺、寺院の破壊行為、そして自分自身のインドでの亡命生活と、ダライ・ラマを知ると同時に中国、チベット、そしてインドの歴史もよく分かる内容になっています。 全てダライ・ラマの主観での内容になっているのですが、本一遍通して感心するのが、侵略行為を行った中国にさえも全てを否定するわけではなく、かの国を知った上で肯定する部分はちゃんと肯定しているところです。侵略後、ダライ・ラマが毛沢東、周恩来と話をするために北京に行った時の記述に、 マルキシズム(共産主義)は、万人の平等と正義に基づく制度、世界の悪への万能薬を宣言している。しかし、理論的観念からいえばその唯一の欠点は、人間的存在を物質的側面からのみとらえようとする面であり、また、彼らの理想追求のために用いる手段には疑問に思うところがあった。 とあります。気に入らない相手であっても辛らつな言葉だけを投げつけるのではなく、物事しっかり洞察し、共産主義の良いところを認めつつもその制度の危うさを見抜いているのにはスゴイなぁと思いました。 この本は1990年に発行されたものであり、話もそれまでとなっているのですが、それから14年経った今でもまだ、中国によるチベット侵略が続いています。 私の友達に、去年、チベットにハッパを喫いに行った子がいます(←何やってんだか)。彼が言うには、ラサはチベット人が住む市内を取り囲むようにして中国人居住地が存在し、警察が全く機能してないため、インドのゴアよりも上質なハッパ目当てに外国人が安宿に押しかけているらしいです。なぜハッパがあるのかというと、現在チベットではマリファナの生産が行われており、「上質なハッパが喫いたければチベットに行くといい」と一部のマリファナ愛好者の中で有名なんだとか。ハッパだけでなくケシの実も、普通の食べ物の香辛料に使われているとのこと(食べてもべつにハイにはならない)。しかし現地にはまともな食べものがないため、長居は辛いとのことでした。 中国が「経済開放」とうたって行った侵略の結果が、コレです。外界から隔離され、最後の楽園であった仏教の国が、見る果ても無くここまで堕落してしまい、世界中に散ったチベット難民の帰るべき国が帰ることができる状態でなくなってきていることに、非常になんともいえない悲しみを感じました。
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ATOKに指摘される誤読たち
げいいん(原因) × げんいん(原因) ○ おとつい(一昨日) × おととい(一昨日) ○ きちちょうじ(吉祥寺) × きちじょうじ(吉祥寺) ○ じえたい(自衛隊) × じえいたい(自衛隊) ○ ATOK(日本語入力ソフト)に誤入力を指摘されると、妙に悲しくなります。
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引き止めないけど・・・
今日は、自分の会社のサイトに載せる「コピーライター・Webデザイナー(急募)」ページの原稿を作りました。自分の後釜募集の告知を自分で作り、上司にOKをもらう??、なんかビミョーな気分でした。 仕事が終わって帰ろうとしたら、ちょうど部長も帰るところだったので、部長の車で駅まで送ってもらうことにしました。車の中で「辞めるんだってなぁ、課長に聞いたよ。来年の2月までだったけ?ちょっと、コーヒーでも飲んでいこうか?」と誘われ、喫茶店に寄りました。 最近、多分「会社を辞める」と課長に伝え、それが部長に伝わった頃から、部長がビミョーに私に対して冷たくなっていたのでドキドキしていたら、喫茶店での話しは「あんたさぁ、職場のムードメーカーだったんやで。いなくなると、ホント寂しいわ。いや、マジで寂しいわ。ウチの職場はどうなるんやろ」に終始しました。 課長に「辞める」と話した時は特に引き止められなかったので、「課長には引き止められなかったから、部長にそう言われるとちょっとホッとしました」と言ったら、部長が、 「課長は理解したフリしてあんたを引き止めるような事は言わなかったけど、彼は僕にあんたが会社を辞めると報告した時、泣きそうな顔をしてたぞ。ほら、あの人はああいう性格だから、心の中ですごくショックを受けてると思う。でも、あんたに気持ちよく出発してほしいから、あんたの前ではあんたの夢を邪魔しないように我慢してるんだよ」 ああ、そうか。うん、そうだ、ウチの課長はそういう人だ、と気付き、少し辛くなりました。 「いい?去る人は次のことを考えているから案外寂しくないけど、去られる方はすっごく寂しい思いをするんだからね。あんたは引き止めてもムダな人だから僕は引き止めないけど、みんな寂しい思いをするということを忘れちゃダメだよ。職場では、“わーい!もうすぐカナダだ!”とウキウキするのはなるべく押さえ、自分のやるべきこと、次の子に仕事の引継ぎをしっかりやることに集中してね。でもって、カナダで頑張れよ。あんただったら、多分、大丈夫。自分の夢を叶えろよ」 と言われました。 カナダのことを自分一人で考え決断したけれど、それによる職場への影響を初めて思い知らされた気分です。カナダへの準備で頭がいっぱいだったけど、職場のことも考えなければいけないなぁと思いました。 出発まで、退職まで、あと5ヶ月です。
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「夢」を持つのではなく、ひたすら「目標」をこなそう
昔からなんとなく、「夢」という言葉が嫌いです。「夢」は「心に抱いていれば叶う」→「他力本願」なイメージがあるからです。 今まで、心の中で望んだだけで叶った夢はひとつもありません。叶えたものは全て「自分で行動した」ものばかり。「棚からぼた餅は1個も落ちてこない、叶えたいことは全て自分で行動しないとダメなんだ」と思って、やってきました。 だから「これを実現したい」と思ったら、まず実現させるために「何時までに何を済ませて、その次何をやるか」を計画します。あとは計画したことをサクサク実行するのみ。余計なことは考えない。計画したひとつひとつをこなしていき、全て終わらせた時には「夢」が実現しているというわけです。 超現実主義。 でもいいんです。期待しすぎて、落胆するよりは。
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今日、退職を切り出しました
来年の3月、カナダに留学することがとうとう具体的になってきたので、今日、上司に退職を切り出しました。 今の仕事が嫌で辞めるわけではないので、切り出すのは結構しんどかったけど、取引先の多くが休みで比較的ヒマな土曜日(つまり今日)を逃す手はないし、まだ5ヶ月先とはいえど、後任の雇用(もしくは社内から選出)や引継ぎがあるから、なるべく余裕持って早く伝えた方がいいと思い、勇気を出して、今日、切り出しました。 昼過ぎ、直属の上司である課長を呼び出し、先にクッキーを渡して、場をなごませてから話を切り出しました。自分が足りないと思っている技術のこと、それを得たいから学校に戻りたい、と話したら、「君の人生だからな。引き止めれんわ」と、理解してもらえたようでした。 今日は部長がお休みだったため、休み明けに課長と一緒に退職の話をする予定です。
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自分に満足しない人の強さ
今日は、昨日行った名古屋在住の有名なインテリアデザイナーさんのインタビューのテープ起こしをしました。 このインテリアデザイナーさんは、あるヴィンテージ自転車の収集家として世界的に有名な人です。その自転車のことを語ると、もう止まらない、止まらない・・・。でも、さすがインテリアデザイナーとして成功しているだけあって、とても感性豊かな素敵な人で、インタビューの間には笑いもあり、とっても楽しい時を過ごすことができました。 今回のインタビューは、彼からホームページ制作の依頼を受けたため、そのホームページのコンセプトとなる部分の「彼の仕事の仕方、仕事への情熱」について語って頂いたものです。 その中で印象的だったのが、この言葉↓ 「私たちは完壁ではないので、自分たちの考える“完壁”を目指して頑張っています。人間はサメといっしょで、泳ぐことを止めたら死んでしまいます。デザイナーは、安心したら、「こんなにいいものが出来た」と思ってしまったら、終わってしまう仕事です。いつも、「まだまだ、まだまだ」と思うことが大切です。実際、どれだけ満足に出来上がった仕事でも、突き詰めていくとまだまだだったりしますしね。反対に、「まだまだ、まだまだ」と思っているからこそ、僕はいつまでも情熱持ってこの仕事を続けていくことができるのです」 ここまで成功しておいて(インタビューは彼のアトリエで行ったのですが、そのアトリエは名古屋市の景観賞を受賞するほど、とんでもなくスゴイ造りのアトリエです)、そこで聞いた彼の「まだまだ」は、決して自分に満足しない人の強さを見たような気がしました。 私も「まだまだ精神」で自分を極められたらいいなと、思ってます。
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説明することの難しさ(文章編)
昨日に引き続き、今日は「説明することの難しさ(文章編)」について。 文章で説明する際、それを読む相手が目の前にいるわけではないため、相手の理解度を測りながら補足できる「会話での説明」と状況は全く変わります。 読んだだけで理解できるような文章を書くには、 文章を読む人(ターゲット)を想定する 文章を書く前に、どのような順番で話を進めれば分かりやすいか考え、レイアウトをしっかり作っておく ひとつひとつの文章をなるべく短くする 大切なことは、最低2回は表現を変えて繰り返す などが基本事項となります。
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説明することの難しさ(会話編)
最近、すごく強く思うこと。それは「分かりやすく説明することは難しい」ということ。 私の会社のホームページは、ある大学の情報科学部の助教授をしている方にサーバーのホスティングをお願いしています。半年くらい前、ドメイン増設の手続きのため、助教授とあれこれやりとりしていたのですが、彼から届くメールの指示がちっとも理解できません。困った挙句、上司にそのメールを転送して相談したら、上司もサッパリ内容を理解することができませんでした。 うちのボスが理解できなかったら、当然私も分からんがなー。 助教授は、彼のレベルで完璧な説明をしています。でもそのレベルというのは、大学の研究室で普段生徒に向かって説明しているレベルで、私がそれを理解するのはとてもムリな話です。メールではらちが明かないので、直接電話して「今、何すればいい?次、何すればいい?」を聞き出し、なんとか手続きを済ませました。 そこで思ったのは、「じゃあ普段、自分は相手がちゃんと理解できる説明の仕方をしているか?」ということ。 仕事でお客さんと会うと、「最近流行の○○(インターネット関連)について、分かりやすく教えてくれんかな」と言われることがあります。その時、私が自分の仕事を通して知っている範囲で頭に思い描いた言葉そのまま話をすると、絶対相手は理解してくれません。なので、なるべく難しい固有名詞は使わないように、分かりやすい例えを出して説明するよう気をつけているのですが、それでも時々お客さんに「やっぱり分からん。困ったなぁ」という顔をされます。 「難しい固有名詞は使ってないのに。一から説明してるのに。どうして理解してもらえないのかな、どうすれば理解してもらえるのかな・・・」 うんうん悩んでいたその時、以前自分が感じたフラストレーション 「私が理解しているレベルまで降りて説明してくれたら、きっと理解できるのに」「分からないと言った部分を言い換えてくれれば、きっと理解できるのに」「難しい言葉ばかりで、何がなんだかわけ分からん。もうイヤ」 を、思い出しました。そこで、 ■質問されたら説明する前に「○○って知っていますか?」とひとつ質問を投げ返し、その回答から相手がどの範囲に詳しく、何を例にして話せば理解しやすいかを探ってから、説明を始めること。 ■説明している時は相手の表情に注目し、少しでも「分からんなぁ」という顔をされたら、理解していたところまで後戻りして、言葉を変えて再度説明すること。 ■一度に難しい話をたくさんすると相手は理解するのに疲れてしまうので、概要・事柄の流れが理解できる程度に難しい部分は思い切って端折ってしまうこと。(相手は「難しい・・・もうダメポ」と思ったら拒絶してしまいます。簡単な説明を繰り返し、「理解できるゾ、なるほど、なるほど」と思わせ興味を惹きつけること) を気をつけるようにしたら、自分の説明が(以前より)理解してもらえるようになりました。 この3つ、当たり前のことですが、実行するとなると結構難しいです。もうちっと修行が必要だな、と思う今日この頃です。
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長良川ラフティング&釜ヶ滝遊歩
長良川ラフティング&釜ヶ滝遊歩
By may
会社の同僚7人(プラス子供1人)と、岐阜県郡上市美並の長良川ラフティングに行ってきました。 天気予報は曇りでしたが、現地に着いたらとってもいい天気。事前に「台風が来たすぐ後だから、もしかしたら川水が濁ってキレイじゃないかも」と聞いていたけど、すごく透き通ったキレイな川水でした。 ところが、いざボートに乗ったら、日頃の人間関係の悪さが表に出て、お互い川への落とし合い合戦。なんなんだー。でもそれがまた楽しかったです。 ラフティングの後、焼肉を食べました。その焼肉を食べた休憩所の近くに「釜ヶ滝遊歩道」があったので、みんなでそこを散策しました。 ・・・正直、ラフティングよりこっちの方がハード。最初は沢周りの平らな道が続いていたのに、そのうち急な山道と変わり、かなりいい筋トレになりました。明日、筋肉痛確実。 でも、森林の空気をいっぱい吸い、滝周りのマイナスイオンを浴び、なにより「ニッポンの山風景」を満喫できて、とても楽しかったです。
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遠藤周作「沈黙」
この「沈黙」は、島原の乱が鎮圧されて間もない頃、キリシタン弾圧を強いていた日本に潜入したポルトガル人司祭が、棄教を拒み拷問されて死んでいく日本人を目の当たりにして、迷い、苦悩する姿を描いた傑作です。 小説のタイトルにもなっている「沈黙」という言葉は、ストーリー全体を通して主人公のポルトガル人司祭、そして読者に、重く圧し掛かってきます。 彼が混乱しているのは突然起こった事件のことではなかった。理解できないのは、この中庭の静かさと蝉の声、蠅の羽音だった。一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片眼の百姓が??あなたのために??死んだということを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける。この真昼の静かさ。蠅の音、愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。それが・・・耐えられない。 「日暗みて、神殿の幕、中より裂けたり」これが、長い間考えてきた殉教のイメージだった。しかし、現実に見た百姓の殉教は、あの連中の住んでいる小屋、あの連中のまとっている襤褸と同じように、みずぼらしく、あわれだった。 「神は矛盾を孕んだ存在です。」 と、断言すると、どこかから非難されそうな気がしてドキドキなのですが、私はかなり昔からそう思ってきました。 人間の歴史の中で、神の名において始まった戦争がとても多いです。その戦争の戦死者達は神のために死んでいくが、そもそも彼らが思う神が本当に「神」ならば、戦争なんて起こらないのじゃないか、なぜ神という存在は無用な殺傷を引き起こすのか、十字軍遠征なんて明らかに他民族を征服する動機付けに「神」が利用されていただけだったのに、彼らはあれを「聖戦」と信じていた。その信心に、矛盾を感じずにはいられません。 「沈黙」の主人公のポルトガル人宣教師は「神の奇跡」を信じ、どんな逆境にも耐え続けます。しかしそれは、自分の力ではどうしようもないことを、人力超えた力で自分の納得する形で解決することを期待しているように思えました。 Did you make mankind after we made you? あなたが人間を作ったのは 人間があなたを作った後のことですか? (XTC / Dear God) 信じる力を肯定する根拠として「神」が存在するならば、神の存在とは一体何か?と考えてしまいます。私は、神の存在の否定はしません。むしろ、人間はとても弱いから、神は存在していた方がいいと思っています。 XTC / Dear God (アルバム「Fossil Fuel (Singles 1977-1992) 」収録) Dear God, Hope you got the letter, 神様 手紙を受け取ってくれましたか? And I pray you can make it better down here. 私はあなたがこの世をもっと良くしてくれると願っているのです I don't mean a big reduction
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高野悦子「二十歳の原点」
1969年6月24日午前2時、国鉄山陰線天神踏切近くで一人の女性が貨物列車に飛び込みました。 彼女の名前は、高野悦子。享年、二十歳。死後発見された彼女の日記が、この「二十歳の原点」です。 「人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。個々の人間のもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点では、それぞれの人間は同じ価値をもつ。そこには生命の発露があるのだ。」 これは彼女の二十歳の誕生日に書かれた日記の一文です。私も二十歳の時、彼女と同じようなことを考えていました。 当時、ありとあらゆることに不満を持ち、またその不満の原因が「自分の未熟さ」にあると自分自身気付いていました。だからとにかく「何もかも自分の目で見て、自分で経験し、その結果、何か分かるのかもしれないし、失望するだけかもしれないけど、今(当時二十歳)この時点で不満を自分に当り散らしても、5年10年後何も変わらないだろう」と思い、家を出ました。 新しい土地でたった一人、まずは生活していくため急いで仕事を見つけてがむしゃらに働き、そこから段々知り合いが増え友達ができ、世間知らずだったために何度かバカを見ることもあったけど、辛い思いをするたび、自分の不完全さ(=自分への不満)が薄れていったように思います。 そしてある日、勢い余って海外へ飛び出しました。海外では、日本人であることを優遇されることもあれば、日本人であるがゆえに自分の否でないところまで避難されることもありました。でも、最終的には「私が私自身である」ことが受け入れられることが分かりました。 その時、「この世界、まんざらでもないな」と思いました。これは自分の中ではかなり大きな変化で、「もう一生、死ぬまで生きていくことができる(←よく読むと、変な日本語)」と思いました。 しかし彼女は、未熟であることを自覚しながらも「論理化する」ことにこだわりました。 「生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる。」 退歩を怖れ、怠惰を許さない性分であるため学生運動にものめり込み、混沌の中、自分の否定と肯定を繰り返し、最後は「不完全さを克服するところに人生の発露がある」という自分の言葉も見えなくなり、貨物列車に飛び込みました。 生き急いでしまったことがとても残念です。
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Woodstock '99 <宴の後>
Woodstock '99 <宴の後>
By may
朝、人の足音で目が覚めました。時計を見ると午前7時。私たち3人が乗るNYC Belmont Park行きのバスは午前10時出発なのでまだまだ時間はあるものの、ヒューストンなど遠くへ向かうバスはもうこの時間から次々と乗客を乗せて出発していました。 目が覚めても頭が回らず(多分、間接喫煙のマリファナのせい)、30分ぐらいぼぉーとしていると、陽はどんどん登り、なおかつ自分たちのいる場所は滑走路の上のため、だんだん暑くなってきました。「ここにいても暑いだけだし、出発待ちのバスにでも乗せてもらおうか」と、3人NY行きのバスを探すため歩き出しました。 昨夜の暴動で疲れ切ってまだ寝ている観客があちこちにいました。破壊された会場の中を歩いている人もいました。みんな顔も髪も体も砂だらけで、痛々しいほど日焼けしています。「みんな、ヒドイ格好してるね」とダニエルに言ったら「自分だってそうじゃん」と言われました。鏡を見てみたらその通りでした。 NY行きのバスは見つけたもののすぐには乗せてもらえず、結局出発の時間寸前にやっと乗せてもらえました。行きのバスはみんな歌を歌ったり騒いだりしていたのに、帰りのバスは5分で全員爆睡。途中で一度トイレ&食事休憩を取り、バスに乗ったら再度爆睡。次に目が覚めたら、NYCに到着していました。 バスを降り、ダニエルとクリスに「4日間楽しかった、ありがとう。んじゃ、これで」と言って去ろうとしたら、ダニエルに「帰りの飛行機は何時?」と聞かれました。「夜8時」と答えたら、「クリスの父さんが3人分の食事を用意して待ってるから、今からクリスの家に行こう。そんな汚い格好で飛行機乗るのもヤでしょ?風呂に入っていくといいよ」と言われました。確かにそのまま飛行機に乗ったら、隣の席の人が嫌な顔をしそうなほど汚いです。好意に甘え、クリスの家に行くことにしました。 午後4時、クリスの家に到着。クリスの家に入った瞬間、食べ物のすごくいい匂いがしました。「久しぶりに人間の食べ物の匂いを嗅いだよね」と3人で笑ってたら、奥からクリスの父さんが出てきました。 クリスの父さん、クリント・イーストウッドにそっくり。(むしろ、クリント・イーストウッドよりカッコイイ!)「この素敵なダディに、なぜこの息子?!(←失礼な!でも親子似てない)」とビックリしました。 クリスの家でご飯を食べて、風呂借り、TVを観て過ごしました。そうしてるうちに飛行機の時間が近づいたのでダニエルに空港まで送ってもらい、搭乗口で4日間のお礼を言って別れました。 バンクーバー行きの飛行機の中で、その日のNEW YORK TIMESを読みました。Woodstockの記事(このログの最初の画像がそれ)を読むと、「ああ、終わってしまったんだな」と、とても寂しい気分になりました。 結局この4日間、一人で楽しむつもりが一日も一人にならず楽しむことになりました。たまたま出会ったダニエルとクリスがまともなRock Kids(Woodstockにいながらドラッグ禁止だった)でラッキーだったこともあるけど、この二人の他にも、会場で隣のテントにいた「69年のWoodstockにも行った」というおっちゃんとか、シャトルバス待ちで並んでいた時に前にいた田舎のメタル好きダサダサ高校生とか、最終日に滑走路へ逃げた先にいたピースフルな人たちとか、みんなとっても仲良くしてくれました。 もしかしたら、いろいろなバンドのライブが観れたことよりも、ロック好きのアメリカ人とキャンプができたことの方が楽しかったかもしれません。いろんな人と音楽についてかなりディープなところまで語り明かすことができました。だから、今回このように暴動が起こり、次回がなくなってしまったことが非常に残念です。もし暴動がなければ、今年、Woodstock '04をやってたかもしれないのに! 夏フェス、大好きです。Woodstockはもうnever againだろうけど、ロラパルーザは復活しないのかなぁ。じぇったい行くのに!
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Woodstock '99 <最終日>
3日目の朝はさすがに疲れが溜まってたのか、かなり遅くまでテントの中で熟睡してました。昼近くなるとテントの中が蒸されて暑さで目が覚めてしまったので、のそのそとテントの外に這い出ました。外は昨日よりは若干陽が陰っているものの、やはりいい天気。隣のテントの二人を起こして、洗面&トイレを済まし、会場の中を少し歩き回ることにしました。 いつの間にか会場の外壁が破壊されていて、自由に出入りできるようになっていました。Mural Wall(絵の壁)は全て持ち去られていました。FOOD COURTは食べ散らかして足の踏み場もないほどの生ゴミが異臭を放ち、洗面所の水道は壊され噴水状態になっていました。 「なんか、いろいろ壊されてるね」 「昨夜のリンプが原因じゃねーの?」 そんな会話をしながらWEST STAGE後方の芝生に落ち着き、夜に向けて体力を温存させるため昼寝をすることにしました。まわりにも同じように疲れて昼寝している人がいっぱいいました。寝転びながら近くを通る人をぼんやり見ていると、なぜかまわりは裸族だらけです。女子は積極的に乳を出してるし、男の人もブラブラパシパシさせながら歩いています。(「Love & Peace=裸」ということ?) 夕方近くになり暑さも和らいできたので、EAST STAGEへ移動することにしました。途中、「10万人のピースキャンドルに参加しよう。今夜8時、EAST STAGEで!by Levi's」というチラシとキャンドルをもらいました。 「8時だって。その頃、誰がライブしてる?」 「トリのレッチリじゃないの?」 「レッチリでピースキャンドルなんて出来るのかよ?Give It Awayだったら、頭燃えるわ」 「'`,、 ( ´∀`) '`,、 ( ´∀`) '`,、」 EAST STAGEに着くとちょうどコステロが終わったところでした。JEWEL→CREEDと続き、完全に陽が落ちて真っ暗になったところで、トリのレッチリがスタート!いきなり、フリーが全裸でステージに現れました。 「きゃあー!(期待通り、モロ出しだ!)」 私のその喜び様に連れの二人が「ちょ、ちょっと!なんで奴は全裸なんだ?」と聞いてきました。「あの人、いつもそうなのよ。ライブでは全裸が日常」と答えると、オーマイガッという顔をしてました。3曲目でバラードのScar Tissue、そのタイミングでちょうど8時。会場のあちこちでキャンドルの灯りが点き、私も隣の人から火を分けてもらい、キャンドルを灯しました。しかし、キレイだったものの何があったわけもなく、あっけなくピースキャンドル終了。(あれぇー?) ライブも終盤に入ったところで、突然大きな音がし、会場の数ヶ所から火が上がりました。観客はステージも見たいけど、後ろの方の大きな火は一体何だとみんなオロオロ。そこで人づてに誰かが機材用の10tトラックに放火したということを聞きました。レッチリのライブが終わった後、急いでテントに戻ろうとしたら、その途中、会場のスタッフテントが放火されていたり、お土産屋さんが襲撃されてたり、襲撃して盗んだ商品を売ってる観客がいたり(売るなよ!)、みんな暴れ放題。といっても緊迫した怖さはなく、「奴ら、ドラッグとアルコールで頭がやられておかしなことしてるなぁ」「便乗して喜んで暴れているキッズもたくさんいるなぁ」というカンジでした。 (後日、「危なくなかった?」とよく聞かれたけど、暴れてる連中より、そこから逃げる観客の方が圧倒的に多かったため、避難民の中にいればさほどキケンではなかったです。) テントに戻ると、すぐ近くでも何かが放火されていて、すごい勢いで炎が上がっていました。ダニエルとクリスが「テントはそのままにして、すぐ避難しよう!」と言うものの、私のテントはルームメイトの借り物だったので「先、行ってて。私はテントたたんでから行くから」と言い、テントのポールを外してシワを伸ばしながらキレイにたたみ、砂をぽんぽんと払って袋に入れていたら、先に避難したと思った二人はまだ近くにいて、「オメー、スゲー神経してるわ」と言ってきました。(そうかな?) 荷物を持って、他の人が逃げる方へいっしょに逃げたら、バス乗り場に辿り着きました。バス乗り場は滑走路の一部で、逃げてきた人たちが座り込んだり寝てたりしていたので、私たちも今夜はそこで眠ることにしました。ダニエルとクリスがテントといっしょに寝袋も置いてきてしまったので、私の寝袋を広げた上に3人で仰向けに寝転びました。 空には満点の星が光っていました。誰かが近くでビートルズをギターで弾いていました。1時間ぐらい話をしてたら、会場の混乱も落ち着いてきたのかまわりが静かになり、私たちも喋り疲れてそのまま眠りにつきました。 1999/7/25 BAND SETLISTS 【EAST STAGE】 11:00AM - 12:00PM: TBA 12:15PM - 1:15PM: WILLIE NELSON 1:30PM - 2:30PM: BRIAN SETZER ORCHESTRA 2:45PM -
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Woodstock '99 <2日目>
2日目は、朝10時頃、爆睡から自然に目が覚めました。テントから這い出し隣を見たら、クリスも今、目が覚めたというカンジでテントの前に立っていました。 「おはよーう( ´∀`)」 「おはよう( ´∀`)」 「ダニエルは?」 「まだ寝てる」 夜中に少し雨が降ったけど、朝になったらいい天気になってました。「なんだか今日も暑くなりそうだねぇ」と話していたら、ダニエルも起き出してきたので、3人で顔を洗いに行きました。 洗面場へ行く途中、先頭が見えないすごい行列に遭遇。並んでいる人に「何に並んでいるの?」と聞いたら、シャワーだということ。「ほらほら!夜のうちにシャワー浴びておいてよかったでしょ?ね?ね?ね?」とちょっと得意気になってたら、「OK, that's enough, no more」と軽くあしらわれました。 ライブは昼からなので、午前中は会場から町まで出ているシャトルバスに乗って朝&昼食を食べに行くことにしました。そのシャトルバスは、なんと私の憧れの黄色のスクールバス!「きゃああ!このバスに一度乗ってみたかったの!」と大ハシャギしていたら、連れも含めまわりのアメリカ人にかなり冷めた目で見られました。(実際乗ってみたら、座席が小さくてすごく窮屈でした・・・) シャトルバスの行き先は、Romeの町の栄えている場所かと思いきやショボイ食べモノ屋が数軒並んだだけの交差点(´・ω・`) 。そこにあったマクドナルドでハンバーガーを食べ、その時初めて3人お互いのプライベートについて話をしました。ダニエルとクリスは生まれも育ちもNYCのBrooklyn、二人共この夏大学を卒業し、秋に一人は大学院、もう一人はロースクールへ進学するということでした(Blink182とGarbageのTシャツ着て、見た目アホっぽいから意外だった・・・)。 お腹がふくれてから、シャトルバスで会場に戻り、バス乗り場前のMural Wall(絵の壁)を見て回りました。ボランティアが描いたという古き良き'69を懐古させる素敵な壁画がたくさんあり、とても素敵でした(しかし、これらの壁画は最終日には破壊されて盗まれることに・・・)。 アラニスからステージを見に行き、続いてリンプへ。リンプのライブは始まりと同時にまわりの観客が暴れ出し(激モッシュ)、前方にいた私も何度かボコられました(うおらぁ!痛いっちゅーに!)。途中でフレッドが、「カップルで来てる奴、女子を肩車しろーっ」と叫び、あちこちで肩車が出来ると次に「肩車されてる女子ぃー、乳見せろー」と叫びました。女子らは言われるままタンクトップやブラを脱ぎ始めました。 「オーマイガッ。言われるままに、乳見せんなよ・・・org つうか、肩車してる彼氏、止めろよ!(他の乳見て喜んでるんじゃない!)」 その後フレッドは、ステージ上でマリファナを吸い始め、その後のライブはヘロヘロでダメダメになってしまいました。このリンプのライブはさすがに暴れ過ぎだったようで、スタッフから「死人が出たら、ショーをキャンセルするぞ。頼むから、落ち着いてくれ」というアナウンスが入りました。 続いてレイジを観て、最後は・・・ EAST STAGE メタリカ WEST STAGE ケミカルブラザーズ ここで、ダニエルは「ケミカルが観たい」、クリスは「メタリカが観たい」とケンカ勃発。「Maeは?」と聞かれ、「テントに戻って、もう寝たい」と言ったらあっさり却下(チッ)。「お互い別々のものが観たいんだったら、一人一人別々のステージに行けば?」と言っても、それではいっしょにWoodstockへ来た意味が無くなるからダメなんだそうな。「案外、アメリカ人は友達同士くっついてるのが好きなんだなぁ」と思いました。私だったら、さっさと一人で見たいステージへ行っちゃうのにー 話し合いの結果、前半ケミカル、後半メタリカを観ることになりました。しかしケミカルは途中で抜けるに抜けれなくなり、結局メタリカは最後の1曲しか聴けずクリスはかなり不満。「まあ、メタリカはツアーやってるし、またいつでも観に行けるよ。明日、クリスの観たいのを優先しようね」となだめていたら、「Maeの英語は変だけど、言おうとしていることは分かるよ。慰めてくれるんだね、ありがとう」と言われました。 この日はレイブまで行く元気がなく、ライブが終わったらそのままテントに戻り、シャワーを浴びに行きました。女子シャワー室に入ったら、壁に直径1mほどの穴が開いていて、その向こうで数人の男が写真を撮っていました。それに気付いた数人のアメリカ人の女の子は怒っていたものの、ほとんどが気にせず写真に撮られるままシャワーを浴びてました。「アメリカ人男子は、女子の裸を見たい場合、コッソリ覗くんじゃなくて、壁に1mの穴を開けちゃうんだ。スゴイなぁ」と思ったら可笑しくて可笑しくて、連れに面白がって報告しました。 2日目もこれにて無事終了。明日の混乱も知らず、穏やかに眠りにつきました。 1999/7/24 BAND SETLISTS 【EAST STAGE】 12:00PM - 1:00PM: THE TRAGICALLY HIP 1:15PM - 2:15PM: KID ROCK 2:30PM - 3:15PM: WYCLEF JEAN 3:30PM - 4:30PM: COUNTING
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Woodstock '99 <前夜~初日>
Woodstock '99 <前夜~初日>
By may
昼休み、同僚と「OZZY→OZZ FES→夏フェスいいよね→Woodstock」と話が盛り上がり、「私、Woodstock '99行ったんよ」とカミングアウトしたら、なんと彼もWoodstock '99に行っていたことが発覚しました。 きゃあー、なかまなかまー♪ 「マリファナの煙もうもうだったよねぇ」「みんな暴れてたねぇ」 と、思い出話に花が咲きました。 当時(1999年)、私はワーホリでバンクーバー(カナダ)に住んでいました。新聞でWoodstock '99の開催を知り、「ジミヘンとジャニスのあのWoodstockが、今年の夏、復活するんだ・・・NY州のRome?カナダとの国境近くじゃん。じゃあ、行こ!」と、速攻チケットを取りました。 出発の1週間前、当時のルームメイト(コリアンとイラニアン)に、「Woodstock '99へ行ってくるから、7/22-26の5日間、留守にするよ」と言ったら、「Woodstock '99に一人で行く?!やめときなよ、危ないよ!」と猛反対されました。しかし、「チケット取っちゃったし、裸のアンソニーを生で見たい」と思ったので、彼らの反対を押し切って行くことにしました。 1999年7月22日、11:30AMバンクーバー発の飛行機でNYへ。次の日の朝6時に空港近くのBelmont Parkから出るバスで5時間かけて会場のRomeへ向かうつもりだったので、その日は空港で野宿しました。(←私、昔こういうの得意でした。今はもうやらないけど) 次の日の朝5時に目を覚まし、空港のトイレで顔を洗って歯を磨き、駐車場でタクシーを拾ってBelmont Parkへ。Belmont Parkの入り口に着くと、周りはバックパックを持った若者でいっぱいでした。みんな、Woodstock '99へ行くようです。タクシーを降り、運ちゃんに「レイプされないように気を付けてなー」と忠告を受けてバス乗り場へ。前日しっかり眠れなくて、寝ぼけ状態で乗車待ちの列にぼんやり並んでたら、横にいる男の子に「さっきから一人だけど、友達は?」と声を掛けられました。 「いないよ。一人で来たの」 「ん?妙なイントネーションで喋るね。どっから来たの?」 「カナダ」 「アジア系っぽいけど、中国人?」 「ううん、日本人」 「一人で寂しくない?」 「全然、平気」 (隣にいる友達とゴニョゴニョ話してから) 「よかったら、僕らといっしょに行動しない?」 「(一人で平気って言ってるのに(´・ω・`)。断るのもアレだし )・・・うん、いいよ」 「僕はダニエル、友達はクリス。よろしくね。君は?」 「Mae。」 ということで、連れができました。 1時間待ってやっとバスに乗車。バスに乗車してからぐっすり眠ろうと思っていたのに、ダニエルが隣に座ってきて質問責めしてきて眠れません。NY人特有の早口英語とスラングで何言ってるんだか全然解んないし、とにかく眠かったので、「昨日野宿でまともに眠ってねーんだよ、寝させろや」とキレたら、「僕も昨日の夜はライブとパッキングとインターネットで一睡もしてないんだよね。じゃ、またあとで。おやすみ。zzz...」と、先に眠られてしまいました・・・。私は、窓から景色を見てたら眠れなくなり、結局会場に着くまで一睡もしませんでした。 [caption id="attachment_1660" align="alignleft" width="200" caption="Woodstock \'99"]<a href="http://maeblog.com/blog/wp-content/uploads/040821.jpg"><img src="http://maeblog.com/blog/wp-content/uploads/040821-200x146.jpg" alt="Woodstock '99" title="Woodstock '99" width="200" height="146" class="size-thumbnail wp-image-1660" /></a>[/caption] Romeに入ってからWoodstock '99に行く車の渋滞にハマったため到着が随分遅れ、会場のゲートに着いた頃にはすでにライブが始まっていました(SOUTH GATEから入ったら、EAST STAGEのジャミロが聴こえてきました。観たかったのに(´Д`)!)。すぐさまライブを観たい気持ちをグッと押さえ、とりあえずテントを張るスペースを確保しておかなくてはいけないので、まっすぐキャンピングエリアに行き、テントを張りました。それから、ダニエルが昨夜インターネットで探し出してきたライブスケジュールを見ながら3人でEAST STAGEとWEST STAGEで観るアーティストを決め、張り切ってステージへGO!暗くなってきたら早めに会場の露店でチャイニーズフードを食べ、食べ終わったらまた速攻ステージへGO! この日のベストアクトは、断然オフスプ!前年に出したアルバム「Americana」がバカでポップな曲が多く、この日のライブもずっとそんなバカで楽しい雰囲気でした。「Pretty Fly」で、ン万人が「あはーん、あはーん」と叫んでいるのには、かなり笑えました。「What
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ニコニコ院長先生
病院案内パンフレット(今回はWebじゃなくて印刷物)の仕事が入り、取材に行ってきました。 病院の出入り業者をしている知り合いが、「医科長レベル以上の偉い人は、自分は総理大臣より偉いと思っている人が多いから大変だよ~」と言っていたので、ちょっと覚悟して行ったら、なんのなんの、院長先生も副院長先生も事務長さんも、とってもいい人達でした。 特に、院長先生(推定70歳より上)。インタビュー中、ずっとニコニコしているのです。 私 「新しいパンフレットで特にアピールしたいことはありますか?」 院長 「新しくリハビリ病棟を作ったことですね( ´∀`)」 私 「そのリハビリ病棟は、いつオープンしますか?」 院長 「今日、事務長が保健所に許可もらいに行きました( ´∀`)。 秋にはオープンしますよ( ´∀`)」 Oh!ユーはどうしてそんなにスマイリーなの??? 取材の休憩時間に、今回の仕事を持ってきてくれたコーディネーターの人にそう言ったら、 「それはね、ここの院長先生は、若い人が大好きだからだよ。若い人が嫌いな先生は、『フン!お前なんかワシと話ができる立場じゃない』とふんぞり返った態度を取るけど、ここの院長先生は全然そんなカンジじゃないでしょう?若者を育てるのを生きがいにしている、すごくいい先生と評判だよ。」 そうだったんだ・・・。(゚∀゚)<わぁ、なんて素敵なおじいちゃん! 今回の取材原稿は、今週中に仕上げる予定です。いつも以上に、愛情込めて頑張ります!
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本当に訪問者が知りたい20の質問
1.サイト名とそのアドレス、あなたの希望する呼ばれ方(ハンドルネーム)についてお答えください サイト名: mayblog(メイブログ) URL: http://maeblog.com/ ハンドルネーム: may 2.あなたのサイトがどんなところか、一言でご説明ください 自分が今、気になるもの、興味あるものを取り上げるブログです。転職・移住・ビザステイタス変更など状況の変化が早く、少し前の自分がまるで他人のような感覚に陥りやすいので、人生の健忘録として自分向けに書いています。 3.このサイトへのリンク、サイト内各ページへの直リンクについてどうお考えかお答えください 完全リンクフリー。 4.「サイト上で訪問者にこれだけは絶対にして欲しくない」ということをお答えください 機械のクロージングによる、英語圏アダルトサイトからのコメントスパム(この文章を読んでるあなたは大歓迎!)。 5.このサイトを運営していく上であなたが何を一番重視しているかについてお答えください ログを書くことは「文章の勉強」、MTをいじることは「Webのバックエンドの勉強」、Blogになじむことは「Blog構造による情報提供と他の情報媒体との違いとメリット、応用への論理作り」に役立っています。なので、いつまでもBlogに対する興味を失わず、うほうほテンションをキープすることを一番大切にしています。 6.このサイトの更新頻度についてお答えください やる気満々の時は毎日。やる気のない時は1ヶ月放置。 7.1回の更新にかかる時間についてお答えください 1時間強かな。 8.現在の訪問者数と、今後希望する訪問者数についてお答えください 現在、1日あたり平均訪問者数180人、ページビュー240くらい。希望する訪問者数はありません。増えても減っても、アイドンマイン。 9.あなたにとって訪問者はどんな存在かお答えください 読んで楽しんでもらえれば、嬉しいです。 10.閉鎖の予定についてお答えください 今のところありません。自分の子供に見せられるまで続けられたらいいなぁ。 11.あなたの性別についてお答えください ♀。 12.あなたの生まれた年代、できればズバリ何年に生まれたかお答えください 1975年。 13.現在のご職業について差し障りない程度にお答えください Webディレクター兼コピーライター(2004年8月現在) 14.出身と現住地について差し障りない程度にお答えください 出身地: 岐阜県各務原市 引越し履歴 : 岐阜県各務原市 ↓ 愛知県春日井市 ↓ 東京都板橋区 ↓ North Vancouver BC CANADA ↓ Vancouver BC CANADA ↓ Brooklyn NYC NY USA ↓ 岐阜県各務原市(今は実家です) ↓
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インタビューの心得
「インタビュー」の仕事はよく「文章書き」とセットにされがちです。しかし、コツというか頭の使うところが文章書きと全然違います。自分が必要な内容を引き出す質問の仕方とか、口数が極端に少ない相手に話をさせる方法とか、実は文章書きよりもかなり大変です。 以下が、mae流インタビューの心得↓ ★事前準備はしっかりと インタビューする内容と相手について予備知識をしっかり入れておくと、沈黙時に回答のヒントを相手に与えることができます。 ★何をどの順番で聞くかスケジュールを立てておき、インタビュー開始時に質問の流れを相手に伝えるようにする 「話が盛り上がり、脱線&脱線&脱線&脱線→時間切れ」を防ぐため。これをやっても、時間オーバーしちゃう時があるんだけどね。 ★自分のインタビューメモは、相手に見えるようにしておく 見えないようにメモすると、必ず「ちょっとそのメモ見せてもらっていい?」と聞かれます。インタビューを受ける側は、何をメモっているか気になるみたい。だったら、最初から見せながらメモします。 ★インタビュー内容を録音する(でも、記事書きには使わない) 録音内容を確認しながら記事を書くと時間がかかるので、基本的に記事書きはメモだけを参考にして書くようにしています。ではなぜ、インタビューを録音するか?それは、「自分のインタビュー方法を確認(反省)」するため。まだまだインタビューの進行とか下手なところがあるので・・・ よく人に、「たくさん喋る人のインタビューと喋らない人のインタビュー、どっちが大変?」と聞かれますが、答えは「どっちも大変」です。話好きな人は、話が盛り上がり過ぎて脱線し、内容があらぬ方向へ行かないよう常に方向転換を心掛けなければいけないし、反対に話をするのが苦手な人は、気分的に打ち解け、安心して思ったことをポロポロ漏らすことができる雰囲気を作るようにしなきゃいけないからです。 でも、気苦労は多いけど基本的に楽しくやっています。インタビューは、普段口にしないその人のこだわりや信念が出る場なので、たまに「この人、素晴い!あんた、ブラボーだよ!」と感動することがあるからです。そのインタビュー相手とはそれっきり二度と会わないことがほとんどだけど、インタビューをやってるおかげで「世の中、素敵な人がいっぱいいるなぁ」と、ぼんやり感じることができます。 それって、すごく幸せなことだなぁー
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好き好きフェロモン
私の同僚に、“バリバリ外交戦術で戦う”タイプの営業さんがいます。彼はとても顔が広く、人にたくさん会ってプロジェクトをガンガン先へ進めるのを得意としています。 この前、その人と飲みに行った時、ほどよく酔っ払って話に盛り上がっていたら、ふと彼が、 「実は僕、人間があまり好きじゃないんだよねー」 と漏らしました。意外でした。 どうやら、平日は仕事のため利害関係を計算しながら人と付き合い、休日はお客さんの接待ゴルフに付き合い、いつも相手の顔色を伺いながら気を悪くしないモノの言い方をするようにしているのが原因みたいです。結局、他人に本音で喋れないモヤモヤが溜まって、相手の顔を見るだけで疲れてしまうんだそうです。 「それって、他人に嫌々付き合わされてると思っているから相手のこと嫌いになっちゃうんだよ。だったら、休みの日くらい無理して付き合わなければいいじゃん。」 「でも、どうしても付き合わなきゃいけないんだよ。」 「だったら、相手と顔を合わす度に自分が楽しいと思えるようになればいいんじゃない?相手のこと好きになっちゃえば?」 「は?どうやって?」 「まず、自分の全身の毛穴を開き、『あんたのこと好き好きフェロモン』を放出するの。」 「何だ、それ?」 「とにかく、相手に『あんたのこと好き好き』という雰囲気を感じ取らせるの。いい?人は自分に好意を持っている他人に対して良い印象を返す傾向があるから。自分の好意に影響された相手の好意を感じることができたら、今度こそ自分は本当に相手に対して好意を持つことができるようになるよ。」 「なんか、ややこしいこと言ってるなー。でも、言いたいことはなんとなく分かるよ。しかし、最初は自分から『好き好きフェロモン』を出さなきゃいけないんだろ?好きでもない相手に、ましてや嫌いな相手だったら、それは無理だなぁ。自分にウソをつくのか?」 「そう。最初はウソでいいの。というか、自分を騙すことから始めるの。『あんたのこと気に入らないけど、好きだ、好きだ、好きだ、好きだ』と思っていると、そのうち何が気に入らなかったのか分からなくなり、『あれ?もしかしたらホントは好きかもしれないなぁ』って思えるようになるから。」 「そんなん、オメーだけだよ・・・(失笑)」 好き好きフェロモンの重要性を分かってくれなくて、残念・・・ 私が思うに、結局、対人の問題って自分の気の持ちようだと思います。「自分は誰にも好かれていない」と思っている人の多くは、相手に「この人、私のこと気に入っていないんだろうなぁ」と思わせているのが原因だったりするし、反対に皆から好かれている人は、相手に「絶対コイツは自分のこと好いてるな。愛い奴め。フフッ」と思わせてるところがあるし。 心理戦と思えばいいのよ。好き好きフェロモンをどんどん出そう。それでうまくいけば、万々歳じゃない?下手にストレス抱えるよりは。
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ミスは誰の責任か、ではなく・・・
今日、後輩が犯した大変なミスが発覚し、上司を何人も連れてクライアントの元へ謝りに行く出来事がありました。 そのミスというのが、 後輩が、間違ったHTMLデータを制作。 ↓ 取り次ぎの会社が、そのミスに気付かず最終クライアントにHTMLを納品。 ↓ 最終クライアントが納品されたHTMLをそのままアップ。アップ後、データの間違いに気付き、激怒。 というものです。 後輩は、取り次ぎ会社の担当者から「納品したHTMLが間違っていたと最終クライアントから連絡があった」と聞いた時、「そっちだってチェックしたにもかかわらずミスに気付かずHTMLをクライアントに納品しちゃったんですよね?だったら自分だけのミスじゃない」という態度を取ったため、結果的に取り次ぎをMAXに怒らせてしまいました。 私たちの仕事は、ミスが起こった時、「作業的に、誰が悪かったか?」という判断をしてはいけません。「そのミスで、致命的な損害を被るのは誰か?」を考えなければいけないのです。 今回、このミスで被害を被るのは、取り次ぎ会社です。最終クライアントは取り次ぎにとって大口クライアントであったため、もしこれが原因で取引を切られてしまったら、取り次ぎは会社存続も危うくなってしまいます。そうなったら「損害賠償請求」も起こりかねません。 さすがに後輩も「損害賠償請求」という言葉を聞かされた時は、真っ青になって反省し始めました。 さてさて、こういうゴタゴタがあった時、部署紅一点の私の役割は、皆に責められ凹んだ後輩に優しい言葉をかけることです。(責任を取る人、怒る人、慰める人。役割分担は大切よ) 明日にでも自分の体験談でも聞かせて、二度と同じミスを起こさないよう諭したいと思います。
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Alone Again
And at sixty-five years old, My mother, God rest her soul,僕の母は65歳で息を引き取ったCouldn't understand, why the only man she had ever loved had been taken生涯で愛したたった一人の男性であった夫が なぜ自分から奪われLeaving her to start with a heart So badly broken失意の中で残りの人生を生きていかなければいけないのか理解することなくDespite encouragement from me僕はそんな母を励ましたがNo words were ever spoken and she passed away彼女は何も言わず黙ったまま、死んでいったGilbert O'Sullivan / Alone Again (Naturally) 人生、必ず出会った数だけ別れがあります。 恋愛を成就させて結婚し、ジジババになるまで二人仲良く生活していても、ある日どちらかが先に死ぬというように、どんな形にしろ別れは必至で避けられるものではありません。 最悪なことに、いつも出会いは気付かないのに、別れは心に深く刻み込まれます。相手と別れたくなければないほど、別れの喪失感は大きくなります。 昔、感情的な理由は全くなかったのに、理論的な理由で彼氏と別れました。結果、相手を傷付け、自分も傷付き、最悪でした。あれから何年も経ったけど、未だに漠然とした寂しさが常に心の中に残っています。 それからというものの、男の子と付き合う度に、近い将来その子との別れが目に見えるようになりました。今が楽しくても、別れる時には別れることになるだろう、その時、これまで何度も経験した「Alone Again」をまた感じることになるだろう、と。 Gilbert O'Sullivan /
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初めてのブラ
今日、お昼休みに社員食堂で、後輩の女の子と「初めてのブラ」話で盛り上がってしまいました~。 私は人に「初めてのブラ」話を振るのが大好きです。というと、なんかイヤらしいみたいですが(実際イヤらしいけどね)、そんなわけじゃなくて、海外を旅して宿やバスなどでいろいろな国の女の子が集まった時、このネタを振ると異様に盛り上がることができるからです。 人種が違っても、国籍が違っても、みんな思うことはいっしょみたいで、ほぼ全員「最初、ブラ着けるのイヤだった」と言います。そして誰かが「クラスの男子の中に必ず一人、ブラをからかう奴がいるよね?」と言おうものなら、「いる、いるー」「ウザイよねー」「あの年頃の男はみんなアホだからー」「大人になっても変わんねーよ!」と、かなり盛り上がります。全員「ガハハ」笑いです。 このネタで、すぐ友達になれる「女子」ってステキです。 ちなみに、私の「初めてのブラ」は、中学1年の1学期、部活の顧問の先生(♂)に、 「うらー。お前ら、よく聞けー。テニス部は男女合同部活だからぁー、1年女子は明日から全員ブラしろー。いいかー、ブラ持ってない者はぁー、今日の帰りに買って来ーい。」 と言われ、みんなで買いに行ったのが最初です。そういえば、それから高校卒業するくらいまで何度もサイズを変えなくちゃいけなくて大変だったなぁ。・・・今じゃ、全然その心配ないけどね(ちょっとさみしい)。
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台湾ラーメンを「アメリカンで」と注文することは可能か?
名古屋の大須に、台湾料理の「味仙」という店があります。どのメニューも美味くてよく行っているのですが、ここの台湾ラーメンは、ハンパじゃないほど辛くて、なかなか克服することができませんでした。 その話を上司にすると、 「ああ、だったら大丈夫だよ。薄いコーヒーを“アメリカン”って言うじゃん?味仙は台湾ラーメンを“アメリカンで”と頼むと、辛さ控えめにしてくれるよ」 というのです。 「うそーん」と半信半疑だったものの試してみたくなり、今日、味仙に行ってきました! 店に入り、メニューを確認してもやはりどこにも“アメリカン”なんてない・・・。勇気を出して、「台湾ラーメンをアメリカンで」と頼んだら、なんと!すんなりオーダーが通り、台湾ラーメン(アメリカン仕様)が出てきました。 確かにスープの色がこころもち薄く、唐辛子も少なめで、いつもの台湾ラーメンより辛そうではありません。「ああ!“アメリカン台湾ラーメン”は、本当だったんだ!」と感動しつつも、毎回食べるたびに泣かされているので、ちょっと慎重に小皿に取って一口食べてみたら、ホントに辛さ控えめでした。 勢いづいて、今度は「カエルの唐揚げ」に挑戦!う~ん、筋の多い鶏肉のような、違うような・・・。でも、にんにくがバッチリ効いて、こちらも美味しいです。(値段が高いのが玉にキズ・・・) いつか台湾ラーメン(そのまま仕様)を克服したいと思いますが、当分は、アメリカンに夢中です。
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体を張って、仕事してます
今日は、エステのホームページ制作の提案書を書くにあたり、「やっぱ、実際体験しないと、いい提案書は書けない」と上司を説得して、勤務時間中にエステを受けてきました。 今日受けたのは、フェイシャル(顔のクレンジング&マッサージ&メイク)です。マッサージとパックが気持ちよくて(&みんなが仕事してる時間に自分だけこんないい思いして)、ムチャしあわせ~ びっくりしたのは、プロのメイクはプロセスが多いこと! 自分でメイクすると、 (1)化粧下地(日焼け止め) (2)部分にリキッドファンデ (3)パウダーファンデ (4)アイブロウ (5)ビューラー (6)アイシャドウ(2色) (所要時間 10分弱) なのに、今日行ったプロのメイクは、 (1)化粧下地(日焼け止め) (2)クリームファンデ (3)パウダーファンデ (4)チーク (5)シャドウ&ハイライト (6)フェイスパウダー (7)アイブロウ (8)ビューラー (9)マスカラ (10)アイシャドウ(4色) (11)リップペンシル(輪郭取り) (12)リップ (13)グロス (所要時間 なんと、30分!) と、普段の倍以上のプロセス&約3倍の所要時間でした。 私はいつも、かなりスッピンに近いナチュラルメイクです。「キレイに装うこと」にあまり興味がなく、「化粧品買うくらいなら、512MBのUSBメモリが欲しい」と思っているくらいです。 そんな「メイク知識ゼロ」の私にとって、今日のプロのメイクは驚きの連続でした。「アイシャドウに4色も!ひゃあ~」「シャドウ&ハイライト?舞台メイクかよ!ひゃあ~」「リップの輪郭取りって、マジっすか?ひゃあ~」という状態。塗って塗って、また塗って、どんどん顔が変わっていきます。 そして最後、自分の顔が電車の中でたまに見るキレイなギャルと同じ顔になりました。「そうか、彼女達は毎朝ここまでしっかりメイクしてるのね」と思いつつ、「あたしにゃ、ムリだ。面倒くさーい」と、すでに挫折気味。というか、全くヤル気ナシ。 会社の人達の反応が見たくて、プロのメイクのまま帰社したら、会う人会う人みんな「うわっ、いつもと違って・・・(無言)」と微妙な反応。どういう意味だ?オラ。社長にはいきなり「どうしたんやて?今日はなんか、キレイだがや」と言われました。(じゃあ、いつもは?) しかし、フルメイクってツライです。皮膚呼吸ができません。家に帰り、速攻メイクを落としました。
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呪われた色白一族
私は、かなり肌が白いです。遺伝性です。ウチの家族は、母親以外全員真っ白です。多分、近所の奥様方に、「あそこの家、夏でもみんな真っ白ね」とウワサされてると思います。呪われた色白一族です。 そのため、私の腕や足は青い血管がくっきり見えます。非常にみっともないです。それを隠すため、夏は肌を痛めない程度に少しずつ日焼けするよう努力しています。美白ブームの世の中と完全に逆行していますが、呪われた真っ白一族に生まれついた以上、仕方ありません。 しかし最近、非常に恐ろしい事に気付いてしまいました。どうやら腕に、メラニン色素が全くない部分があるようなのです。 大きさは親指の爪ぐらいで、腕全体がほんのり日焼けしても、その部分は真っ白のままです。もっと日焼けすると、その部分はさらに目立ってしまいます。イヤーン。 実は、右脚のひざの裏にもメラニン色素が全くない部分があります。中学の頃、体育の時間に友達に「ふくらはぎの上の方、まだらになってるよ」と指摘されて気付きました。当時はそこだけだったのに、今はそれが腕にもできてしまったようです。 こうして、「メラニン色素ゼロポイント」が徐々に全身に広がり、そのうち頭の上から足の先まで真っ白になってしまうのでしょうか?
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17歳のカルテ(1999)
「・・・夢と現実が混乱したことはある?」 今から一ヶ月前、原因不明のヒドイ頭痛に倒れ、一週間寝たきりになりました。頭が痛くて何も食べられず、眠ることもできず、意識朦朧としながら丸4日間、覚醒と昏睡を繰り返しました。 常に「非常に浅い睡眠」と「完全に目が覚めていない状態」だったため、夢と現実の境目が無く、まさに「夢と現実が混乱」した状態。 NYのバッテリーパークにいてワートレを見上げた次の瞬間、自分の部屋のベッドで横になっていたり、喉が渇いてパジャマのまま洗面所まで行き、水を飲んで楽になったと思った瞬間、なぜか病院の待合室にいたり。 「痛みの大波」が襲ってきた時だけクリアな思考感覚が戻るけど、クリアになったらなったで「もう一生、鎮痛剤を飲まなければ普通の生活ができないのかなぁ・・・」という絶望的なことばかり考えてました。 結局、何が原因か分からないまま、そのうち痛みが徐々に治まり、仕事を休んでばかりいられないので鎮痛剤を飲んで早々に職場復帰し、今は普通の生活に戻っています。 この経験は自分にとって生まれて初めて本気で「もっと自分の体に気を遣わなけば」と痛感することとなりました。結局、「頑張ればどうにかなる」が度を過ぎて、体がそれに耐えられなかったのだから。 でも、根本的に何が原因で、何がキッカケだったのか、未だにわかりません。 さて、この映画の舞台となる「クレイムア(精神病棟)」の患者達も、「自分の症状を自覚してはいるものの、それは何が原因で、どうすれば治るのか分からない」患者ばかり。主人公のスザンナ(ウィノナ・ライダー)もその一人です。 スザンナは、「自分がなぜこの世に存在するのか分からない」という不安を抱え、自殺未遂を起こし、精神科医に「境界性人格障害(ボーダーライン)」と診断されてクレイムアに入院します。映画の前半での彼女は、極端におかしな行動はしないものの、いつも目が泳いでてとても不安定(←このあたりのウィノナの演技がとても上手い!)でしたが、デイジー(ブリタニー・マーフィ)の自殺やリサ(アンジェリーナ・ジョリー)との衝突を経験し、少しずつ「自分がここにいる」感覚を取り戻していきます。 ストーリーは特に派手な展開もなく静かに淡々と進んでいきます。映画全体を通して見えるのは、それまで「自分という存在」を捉えられなかったスザンナが、“自分”に意識を移し、少しずつ変わっていく様子。 「漠然と生きてたら問題は解決しない、問題が何か分からなければそれと向き合うことはできないが、意識することから始めるのが大事なんだ」と、思わせられました。
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10代の脳の秘密(Secrets of the teen brain)
10代の脳の秘密(Secrets of the teen brain)
By may
随分前の記事になりますが、TIMEに「10代の脳の秘密(Secrets of the teen brain)」という非常に面白い記事があったので、ここに紹介。 人間の脳は成長過程で、ニューロン(神経単位)から何千という樹枝状の突起を出し、複雑に繋がり合います。それが最も密になるのが女の子で11歳、男の子で12歳半。脳の神経回路はその後10年近くかけて頻繁に使う安定した回路のみ残すよう剪定され、それが完了するのが20代前半となります。 その剪定のプロセスは、後頭部から始まって前頭葉が一番最後となるため、ティーンエージャーは知性よりも感情に支配されやすく、また、第二次性徴とも重なってとても不安定となります。そのため彼らは、向こう見ずで感情的な行動を取りがちなのです。 私は現在29歳ですが、10代の頃は今の自分とは別人としか思えないほどハチャメチャでした。 バイトを3つ掛け持ちして朝5時から夜11時まで働き(←なおかつ、学校にもちゃんと通ってました)、電車の中でウォークマンをガンガン聴きながら本読みながらモノを食べたり(←申し訳ない・・・)、バックパック持ってフラッと旅に出てしまったり(←これは今でもやりかねないが・・・)。 当時は「刺激過剰」がちょうど良く、人ごみ平気、ショップ大好き、疲れ知らずに走り回ってました。 しかし今は、人ごみはなんとなく疲れてキライだし、物欲もすっかり治まりました。疲れ知らずに走り回るなんて、もうイヤです(だって、疲れるから)。 この変化は「すごく落ち着いた」というより、なんだか昔より刺激に魅力を感じなくなったというようなカンジ。そのため、刺激に惑わされず、落ち着いて実質的に有益な選択をするようになれたからいいんだけど・・・ これが、「大人になる」ということなんでしょうかねー。なんだか、少し寂しい気もします。
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キスはパッチテスト
「人間の性的行動は、全て自分の遺伝子存続させるための“生殖活動”に繋がっている。キスもまた然り。 キスの瞬間、脳が相手の唾液をすばやく分析し、遺伝子に問題がないか判断を下す。相手が自分の免疫能力の欠点を補う要素を持っていれば、体は顕著な反応を示し、そうでなければ反応を示さない。」 ・・・んだそうです。 キスをして、「全く何のトキメキも起こらない、痛くも痒くもない相手」と「腰が砕けて、激ヤバな相手」と2種類あります。それは相手の性格・ルックスとは関係無いので、今まで「唾液の相性かな?ハハッ、まさか!」と思ってました。 予想は、遠からず近からず。「遺伝子チェック」によるものだったんですねー。 ということは、キスはある意味、「パッチテスト」 ともいえるかもしれません。 性格的にウマが合わなければもうダメだけど、ウマが合っても化学反応が起こらない相手では執着できません。 執着できない相手には、引き際が肝心かも。
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病に伏せっています
う゛ぅ゛~、頭イターイ。 頭痛と悪寒が酷くて、大変です。寝たきりです。固形のモノが食べられないので、毎日夜に近所の病院に行って点滴を打ってもらい、何とか持ちこたえています。 点滴の際にお医者さんに診てもらっているのですが、「原因不明」としか言われません。その病院は、患者の言いなりに点滴を打ってくれるので私にとって都合いいのですが、昔から「ヤブ」と有名で、診断は全く信用できなくて困っています(←ダメじゃん)。 他の病院に行きたいのだけど、遠征する元気もないし。歩いて1分のその病院に行くのもしんどいくらいだもん。 唯一の救いは、昨日処方された鎮痛剤(ロキソニン)が効果てき面で、昨日に比べて今日はとっても気分が楽なこと。 早く、職場に復帰したいです。健康は素晴らしいと、今さらながら痛感しました。。。
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コピーライターの憂鬱
コピーライターはよく、「憧れの職業」に挙げられます。 確かに、「言葉で人を動かす」ための文章書きなので、文章に自信がある人が挑戦したくなるのも無理ありません。そういう私は、コピーライティングの仕事をしています。本業はWebディレクターですが、なぜか最近、ライティングの仕事の比重が大きくなってきています。 今日はその「コピーライティング」という仕事について。 3年前、私がDTPオペレーターだった時、上司から「自分のホームページ持っているんだよね?少しは文章書けるんだよね?ホームページの取材と原稿書きをやれる人間がいなくて困ってるんだけど、どう?」と持ちかけられ、社内のインターネット課に異動になり、ホームページの取材と原稿書きをやるようになりました。 元々自分のホームページを持ってたくらいなので、文章を書くのはキライじゃなかったです。どちらかといえば好きでした。でも、仕事で文章を書く気は全くありませんでした。しかし、いつの間にかコピーライターになっていました。 コピーライティングを始めた当初は水を得た魚のように絶好調で、すごく楽しんでコピーを書いていました。でもすぐに「楽しんでコピーを書く」ことができなくなってしまいました。というのは、どうしてもオススメできない商品でも“売るために”文章を書かなくてはいけなかったからです。 次々とコピーライティングの仕事が来ました。仕事によっては「どうしても書けない」と思うものもありました。そんな時は、あえて自分の主観を消し去り、別人になったつもりで書きました。「これを読んで、商品を買う人がいる」ことは、「自分のウソにまんまと引っかかって、お金を払う人がいる」ことと思うと、非常に鬱でした。 いくら「仕事のための文章」であっても、「文章を書く」という行為は自分の「思想」が伴うため、割り切れないととてもツライのです。難しい仕事です。 ワタシネット 「コピーライター失格」 同じように悩んだコピーライターがいたようです。最終的に、彼女は仕事を捨てました。 しかし私は、今でもコピーライティングの仕事をしています。「自分のためにコピーを書くのではなく、クライアントのためにコピーを書く」ことを意識するようにし、クライアントから「コピーライティング代」として貰うお金以上に、クライアントを儲けさせるのが自分の義務だと、そのためにはどんなコピーにすればいいのか考えるようにしたら、モヤモヤ思い詰めている場合じゃなくなったからです(←単純だなぁ)。 今では、「文章は書けば書くほどうまくなるので、仕事=練習になる」「自分のための文章は、プライベートの時間を使って書く、このBlogがあるし」と思い、楽しくコピーを作るようにしています。
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タマネギ食べたら
昨晩、タマネギをたくさん食べたら、風呂に入らず、落ちるように眠ってしまいました。 ・・・気付いたら、朝です。(マタ、ヤッチャッタ・・・) 私にとってタマネギは、強力な睡眠薬です。 高校生の頃から不眠症気味だったのですが、ある日、雑誌に「タマネギには安眠効果がある」と書かれてあるのを見つけ、眠れない時に食べてみたら下手な睡眠薬よりも効果てき面!それからというものの、タマネギ様には何度も助けていただきました。 ところが、どうやら私の体質は「タマネギ食べたら、よく眠れる」ではなく、「タマネギ食べたら、眠ってしまう」ようで、眠っちゃいけない状況でもタマネギを(たくさん)食べると、意識が切れるように眠ってしまうのです。 試験前で追い込みしなきゃいけない夜や、次の日の朝に早い時間のフライトに乗らなきゃいけない時などは、気をつけなければいけません。「ネコがマタタビで酔っ払う」ように、どうしても「タマネギ」に体が反応してしまうのです。抵抗できません。 こんな体質、私だけ?
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グッド・ウィル・ハンティング(1997)
久しぶりに「グッド・ウィル・ハンティング」を観て、主人公ウィルのセリフにビックリしました。 “治安維持のため派兵を”と政治家は言う 自分らは戦場など行かず、せいぜい基地視察 負傷するのは労働者階級 帰還してみれば工場は紛争国に移転し、 当時の敵が働いている 労賃が安くすむからだ 国が派兵したのは、石油を安く買うためだった 石油会社は紛争を理由に値上げ甘い汁と吸うが 帰還兵には打撃だ 今、アメリカでガソリンが値上がりしています。西海岸で1ガロン(3.785リットル)1ドル10セントだったのが、2ドルを越えました。石油会社社長のブッシュが起こした、イラクのゴタゴタ。今から7年前に作られたこの映画は、すでにお見通しだったようです。(゚Д゚)コワー ま、それは置いといて、映画の話。 この映画は、主演のマット・デイモンと共演のベン・アフレックが共同で脚本を書き、アカデミー脚本賞を受賞した映画です。内容は、生まれつき天才的な頭脳を持ちながら幼児期の虐待のトラウマにより心を固く閉ざし、荒れた日々を送る青年ウィル・ハンティング(マット・デイモン)が、精神分析医マクガイア(ロビン・ウィリアムズ)と出会って少しずつ心を開き、自分の未来を探るというもの。 精神分析医マクガイアがウィルに言う 「君は望めば何でもできるのに、何もしようとしない 何が好きだ?何がしたい? いつも君が巧みにうそを並べて逃げているのは こんな単純な問いが分からず、答えられないからだ。一体、君は何がしたい?(What do you really wanna do?)」 というセリフ、とても痛いですね。 これは普段私が自分に対して自問している問いでもあります。ウィルみたいに「自分が何を望んでいるのか分からない」のではなく、「自分が何をしたいか明確に分かっている」ものの、そのために“すべき”ことをたくさん抱え、壁にぶち当たっては挫折、自己嫌悪の繰り返し。その度に「ホントにこの方向でいいの?」と迷いに迷ってます。 自分の道を見つけるまでも大変だけど、見つけた後も大変です。ウィルは最後に、自分の道を見付け、出発します。映画のラストはウィルのスタート。「望むから、失望する。望まなければ、失望しない」という言葉があるように、ウィルはこの先、自分の道を見つけたが故に困難にも遭うかと思いますが、それでも彼にとって漠然と過ごしていた日々よりは、「リアルで幸せな人生」だと思いたいものです。
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文章に現れる全てのこと
私は仕事で他人が書いた文章の文法チェックや修正をしています。そのため、とても注意深く人の文章を読んでいるのですが、最近あることに気付きました。 それは、 「文章は、ダイレクトにその人の性格が表れる」 ということです。 全く同じ内容の文章を数人に書かせたとしても、表現方法、言い回し、言葉の選び方が人によって違ってきます。その“違いの部分”が、その人の特徴をとても雄弁に語るのです。 例えば、 ・ユーモアのある人は、サービス精神旺盛な文章を書きます。 ・気遣い屋さんは、当たりのやわらかい文章を書きます。 ・注意力のない人は、話題があちこちに飛んで論筋を追うのが大変な文章を書きます。 ・思いやりのない人は、カサカサに乾いた深みのない文章を書きます。 ・斜に構えた人は、斜に構えた文章を書きます。 面白いですねー。「文章占い」でも作ろうかな。
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活字中毒患者の記録
「10代の頃に読んでいた雑誌が後の人格形成に大きく影響を与えていると思われる・・・。“自分探し”のため、雑誌遍歴を辿ってみよう!」というプチ企画が、まことしやかに流行っているようです。 ぼんやり上手 「雑誌をめぐる冒険」 ARTIFACT 「10代の雑誌遍歴を語る」 重症の活字中毒の私としては、雑誌遍歴を辿ってみるのはなかなか面白そうなので、10代と言わずできるところまで詳しく辿ってみたいと思います。 【小学校低学年】 ・こぼたち 岐阜県教育委員会が県下の小学生の保護者に配っていた教育雑誌です。内容は「親は、どのように子供に接するべきか」というもの。これを毎月学校でもらって、親に渡さず自分で読んでました。 【小学校中学年】 ・週刊少年ジャンプ 2つ年上の兄が買っていたのを読んでいました。当時は、「北斗の拳」「キン肉マン」「Dr.スランプ」「キャッツアイ」「ハイスクール奇面組」「シェイプアップ乱」などが連載していてかなり面白かったです。クラスの男子によく、「コロコロコミックなんてガキの読む雑誌やんか。ジャンプ読んでみ?」と、勧めてました(大きなお世話!)。 【小学校高学年】 ・りぼん ・なかよし いとこのお姉さんの影響で「なかよし」、友人の影響で「りぼん」を読むようになりました。この頃お小遣いは「りぼん」と「なかよし」を買って、残りを推理小説の文庫本につぎ込み、1日で使い切っていました(貯金観念ゼロ~)。 【中学生】 ・週刊ヤングマガジン ・週刊ヤングジャンプ またもや2つ年上の兄が買っていた雑誌です。ヤンマガは「バイクメ~ン」「ハゲしいな桜井君」、ヤンジャンは「AKIRA」「BE FREE」が大好きでした。(女子中学生が、「BE FREE」って・・・(苦笑)) 【高校生】 ・Seventeen 高校生の頃はあまり雑誌を読まず、寺山、太宰、井伏、芥川などの文学モノと「王家の紋章」にハマってました。雑誌といえば、友人が毎号買っていた「Seventeen」を借りて読んでいた程度。「借りて」というのは、自分で買ってまで読みたいと思わなかったからです。この頃、どうやら自分は女の子チックなものに全く興味がないということに気付き始めました。 【学生~タワーレコード時代】 ・ロッキングオン(国内) ・Cut(国内) ・SPOOKY(国内) ・米国音楽(国内) ・bounce(フリーペーパー) ・People(US) ・Interview(US) ・SPIN(US) ・NME(UK) ・Melody Maker(UK) ・Paris Match(FR) 進学してから学校の近くの本屋でバイトを始めます。そこで雑誌の返品入荷担当となり、店長に「店で取り扱っている全ての雑誌に目を通し、内容を把握するように」と命令され、実行します。1年後、タワーレコードに転職、海外雑誌の担当となります。そこでも「取り扱っている全ての雑誌に目を通し~(以下同文)」を実行し、世界各国の雑誌の世界にのめり込んでいきます。 【東京時代】 ・Dictionary(フリーペーパー) ・日経ビジネス(国内) 上京して音楽関係の仕事に就職します。そのため、24時間音楽一辺倒となり、私生活が乱れます。それに深層意識が危機感(?)を感じたのか、ニーチェやサルトルなど哲学に走ります。同時にフィツジェラルド、サリンジャー、カポーティにもハマります。勤務先の社長が読まずに捨てる「日経ビジネス」を拾って読みつつ、「フリーペーパー」という媒体に異常に興味を持ったのもこの頃です。 【カナダワーホリ時代】 ・Who(US) ・Us(US) ・Big Takeover(US) ・Vancouver Tonight(フリーペーパー) ・フレイザー(フリーペーパー) カナダに引越し、「タワーレコード時代に自分が取り扱っていた雑誌が、普通に店頭に並んでいる!」ことに興奮し、毎日本屋で立ち読みの日々。日本に輸入されていない音楽雑誌を見つけてはコレクションしてウホウホしてました(←雑誌オタク気味)。また、バンクーバー在住日本人向けのフリーペーパーに興味を持ちます。 【アメリカ逃避行時代】 ・Rolling Stone(US) ・Maximum Rock'n'Roll(US)
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ワンマン社長
今日は、客員講師(?)という立場で、クライアントの社内会議に参加してきました。 会議の議題は、「新規作成するホームページの内容をどういうものにするか」というもの。私は、他社の社内会議に参加するのは初めてで、「人様の会社の社内会議に参加してもいいのだろうか?」と思いつつも、ある危惧を感じ、参加せざるをえませんでした。 というのは、半月ほど前にその会社からホームページ作成の依頼を受け、これまで2回ほど打ち合わせをしたのですが、その会社の社長が超ワンマンで、社長の一言で全てが決まってしまうということが分かったからです。前回の打ち合わせの最後に担当者から「サイト構成が決まったところで、社長と営業全員を集めて一度社内会議を開く」と聞き、「ワンマン社長の気まぐれで、サイト構成大幅変更なんてならないだろうか・・・こりゃヤバイ!」と思い、思わず「その会議、アドバイザーとして私も参加させてください」と言ってしまいました。 そんなわけで参加した、今日の会議。 いやはや、史上最強、沈黙がとても恐ろしい会議でした。社長がすぐ「そんなんでいいのかぁ!」と怒り出し、その叱咤に社員全員が黙っちゃうの。ひゃあ~。(((( ;゚Д゚))) 最初はその迫力に押されて私も黙っていたのですが、そしたらやはり話がサイト構成を変更する方向に進み始めたので、「私、社外の人間だから社員の皆さんと一緒になって黙ってる必要ないし、一応、Webの専門家として参加してるんだから、言うべきことは言っとかないと!(つうか、方向修正しないとヤバイ~)」と開き直り、「でもいいですか、社長・・・」「それはいけませんってば、社長・・・」と何度か横ヤリを入れ、サイト構成変更をなんとか阻止させてもらいました。 会議が終わり、重~い神経の疲れを感じながら会社に戻ったら、ウチの営業部長のところにそのワンマン社長からごきげんな電話があったことを告げられました。 気に入られた? まさかー。 反論ばかりしたのに。 次回、原稿が出来上がった時点でまた会う予定なので、その時、感触を確かめてみたいと思います。 (でも、ホント、今日は怖かったです・・・)
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音のルーツ
2週間ほど前、このBlogに、AからZを自分の好きな曲で埋める「A-Z Songs」を載せたら、「全部、マイナー過ぎる!」 と、多くの人にお叱り(ツッコミ?)をいただきました。 「自分の感覚は、世間一般とかなり違う」ことは認識しているので、このA-Z Songsではラモーンズとかレッチリなど超メジャーなミュージシャンも入れておいたのですが、これでもダメだなんて、ちょっとショックです。 でも、このA-Z Songsを見直してみると、自分の音のルーツがよく出ててとっても面白なぁと思いました。 私が音楽を意識して聴き始めたのは、多分、3歳か4歳の時。家にあったカセットテープで、狂ったようにBeatlesを聴いていました。当時、「外国」「英語」という概念がなかったので、「彼らの曲が何を歌っているのかさっぱり理解できないのは、親戚のおばあちゃんの言葉といっしょで、彼らの日本語がなまっているからだ」と思ってました。小学校に入ってから、Beatlesが英国(外国)のバンドだということを知り、「なんだ、あの曲の歌詞は日本語じゃなかったんだ。どうりで分からんわ」と、子供ながら深く納得したのを覚えています。 (でも、当時大好きだった「We Can Work It Out」「Penny Lane」「All You Need Is Love」の3曲は、ソラで歌うことができました。「ライフイズ ベリーショー アンゼーズノー ターアーアアーアー」というカンジで。) さてその後、小学校1、2年ぐらいでなぜか突然、XTCの「Ten Feet Tall」を好きになります。XTCはこの1曲だけなので、多分、ラジオか何かで偶然耳にしたんだと思うけど、曲の始まりから最後まで完璧に暗記し、四六時中この曲が頭の中でループするほどのめり込みました。 というわけで、私の音のルーツは、「Beatles」と「XTCのTen Feet Tall」。 真っ白なキャンバスに最初に入れた色がその後描く絵に多大な影響を与えるように、3~7歳のチビッコだった私の脳に「Beatles」と「XTCのTen Feet Tall」が深く刻み込まれたため、その後聴く音は全て「Beatles」と「XTCのTen Feet Tall」が基準となってしまいました。 中学でギタポ、パンク、高校でグランジ、サイケ、レゲエ、モッズ、ソフトロック、パワーポップ、KISS、R&Bなどを聴くようになったけど、それらのジャンルの中でもやはり音的に「Beatles」と「XTCのTen Feet Tall」寄りを好んで聴いたり、ここまでいろいろなジャンルを聴くようになっても、「好きな曲は?」と聞かれて挙げてしまうのは、「Beatles」と「XTCのTen Feet Tall」系だったり。なんか、理屈じゃないところで、どうしても「Beatles」と「XTCのTen Feet Tall」を求めてしまうのです・・・。 きっと一生、私は「Beatles」と「XTCのTen Feet Tall」から逃れられないんだと思います。
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邦人解放、冷静になって考えたい
中日新聞2004年4月18日社説 「冷静になって考えたい」 小泉首相が、ボランティア活動の継続に「不快感」を表し、自民党総務会では救出経費の請求を訴える声が相次いだ。揚げ句は渡航禁止の法制化まで。 何かが変だ。 NGOやフリージャーナリストとは、「すき間」を埋める人々だ。とりわけ、紛争と交渉に明け暮れる国際社会はすき間だらけである。環境、貧困、衛生、水、教育…。地球上には、国家という枠組みでは解決が難しい重い課題が山積している。NGOが大切なのは、国家間の交渉には付き物の手続きやメンツにとらわれず、国境を容易に飛び越えられる存在であるからだ。 縦の命令系統に支配されて、現場での動きが緩慢になりがちな「国家」に比べ、NGOは横に結びつきやすい。国籍とは無関係にネットワークで結ばれて、機動力を発揮する。NGOははじめから、人と人との関係を基本に結びつく。 紛争地での「人道支援」に当たっては、そんな特性が生きる。統治と秩序をなくした国できずなを結び直すには、人と人との関係をまず築くしかないからだ。ボスニア、ソマリア、そしてコソボ…。NGO抜きにして人道支援は語れない。 解放された高遠菜穂子さんは、イラクの少年が身代わりを申し出たほど現地で慕われている。対日信頼も育った。それを知り武装勢力は早くから犯行の間違いに気づいていた。新たに解放された二人が丁重に扱われたのも、聖職者が積極的に仲介したのも、彼らを理解したからだ。 ジャーナリストらは、危険と使命感をはかりにかけた上、戦場に赴いた人たちだ。危険な場所を避け続けていては、国民の目と耳になれない。 だとすれば、邦人が有事に遭った時救出に全力を挙げるのは、政府として当然の使命ではあるまいか。本人や家族の感謝の言葉を受け入れてまず五人の生還を素直に喜びたい。高遠さんらがやがて再開するだろう活動を、責めることはできない。 政府とNGOは、これからもお互いを尊重し合いつつ、人道支援の両輪であるべきだ。NGOも今度の事件を教訓に危機管理、情報収集、後方支援体制や、政府との連携をさらに強化し、可能だと判断できた時点で活動を進めていけばいい。 五人に沈黙を強いるとしたら、この国こそ、少し危険である。
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匂いに敏感
今日、会社見学に来たお客さんが、手土産にケーニヒスクローネのお菓子を持ってきてくれました。 お菓子もすごく美味しかったのですが、それよりお菓子の包み紙の匂いの方が、私にとってとても味わい深いものでした。 紙の匂い(というか印刷の匂い)が大好きです。新しい建物の匂いや、恋人の服の匂いとかも、かなり好きです。 人より匂いに敏感なようで、反面、悪臭も嗅ぎつけてしまって困っています。特に、毎日の通勤電車の中の、他人の息に混じる食べ物臭、タバコ臭、歯磨き粉臭、オヤジの加齢臭、洗っていない頭臭、お尻の拭き残し臭なども意図せず目ざとく嗅ぎつけてしまい、時には拷問のようです。 そのため、それらの匂いから逃げるために、いつも香水を持ち歩くようにしています。 ここ1年ほど気に入って使っているのは、 Yujin Floa(ELLA MIKAO DESIGN) Light Blue(DOLCE & GABBANA) CK ONE(Calvin Klein) の3つ。 他の人にかからないようにするため、オートマイザーはスプレータイプでなくローラータイプを使い、ほわぁ~んと悪臭が襲ってきたら自分の手の甲に香水を付けてその匂いを嗅いでしのいでいます。 結構、大変です。しかし、苦労も多いけど、フェロモンも嗅ぎ分けられるので、時には役に立っています。
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A-Z Songs
はてなダイアリーに『「あ~ん」を好きな曲で埋める』というのがありました。こういうのが好きなので、ぜひ参加しようと思ったら、自分が「あ~ん」でやるには困難だけど「A-Z」であれば難なく出来ることに気づいてしまいました。 というわけで、「My Favorite A-Z Songs」はこちら↓ A All Dreams Are Gone / Petrol B Blitzkrieg Bop / Ramones C Coming Up Roses / The Semantics D Diesel Smoke / Eggstone E Everything and More / Dolly Mixture F Fear Of Flying / Ruth G God Save The Queen / The Sex Pistols H Half The Battle / Gladhands I
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デブラ・ウィンガーを探して(2001)
「グラン・ブルー」「バッファロー’66」のロザンナ・アークエットが、自分と同世代の40代の女優34人に、家庭と仕事の両立、子育て、女優としての仕事について本音を語らせ、自らも母として女優としてどう生きていくかを探るドキュメンタリー映画です。最初パッケージを見て、「97分?短いなあ」と思ったけど、なんのなんの、内容的にはてんこ盛り。お腹いっぱいになります。 女優達が語る「家庭と仕事の両立」は、まだ未婚で子供もいない私にとっては未知の世界だけれども、いずれ私も結婚し子供を生み、仕事を続ける(つもりの)身として、とても考えさせられるものでした。というのは、それが遠い未来ではなくいずれ近いうちに自分も直面するだろうな、と思うからです。 私は、専業主婦は絶対無理な人間です。しかし自分の母親が、私がものごころつく前から働き、あまり家庭に気を回すことがなかった人なので、自分が家庭を持った時はせめて子供が中学校に上がるまで学校から帰ってきた時に家に居て、その日一日学校で起こった話を聞いてあげられるようにしたいと思っています(←理想中の理想)。 でも現実、それを可能にできるような都合のいい仕事を見つけられるとは思えないし(だから今、在宅で仕事をすることが可能な能力とキャリアを意識して仕事をしている)、もしかしたら自分も母親と同じように、将来家庭をかえり見ず子供に寂しい思いをさせながら自分の仕事に没頭してしまうんじゃないかという不安もあります。 家庭と仕事の両立、難しいんだろうなぁ。ジェーン・フォンダでさえも、「It's really, really, hard.(ため息)」と言ってたし。 でも、34人の女優達は、仕事を選び満足した人、仕事を選び後悔した人、家庭を選び納得した人など34通りの人生があり、同じ職業に就いていながらもそれぞれ抱えている状況が全く違っており、そのうえで各々が「自分と家族にとってベストは何か」を真剣に考えて生きていました。 彼女達の発言に一貫しているのは、「どの時点で何を決断するか。その決断のために、自分がどういう人間で、何にプライオリティを置くべきかを知っていること」でした。 ああ、そうか。これに答えがあるんだな、と思いました。
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青春の光と影
3、4年前、高校時代の部活仲間が一斉にマルチまがい(MLM)商法にハマりました。 私はキャッシュフローの概念から見て論理的におかしいその商法にもちろん乗ることが出来ず、静観するつもりで彼らと距離を置いていたところ、そんな私にしつこく勧誘をしてくるマルチ上位の男の子がいました。 彼は高校を卒業し、一度就職してから転職した先の会社が「先物取引」の会社で、そこで目の当たりにした「インチキな取引」を「これが社会だ」と勘違いし、自分が他人をMLMに誘うことで誘った相手の出資を搾取することを知っていながら、かつて“友人”と呼んでいた同級生を次々とMLMに誘っていました。 「今、僕の収入、スゴイんだから」「このお金は全て貯金し、将来、貯めたお金で生活しながら小説を書きたい」 本人は夢を語っているつもりだったのかもしれませんが、私から見たら、ただ実現の根拠が全くない自分の夢を否定するのが怖くて必死にしがみついているようでした。 But now old friends are acting strange だけど今では 昔の友達は妙によそよそしく They shake their heads' they say I've changed 頭を横に振っては「君は変わった」と口々に言う But something's lost and something's gained そう 確かに何かを失ない 代わりに何かを手に入れてきた In living every day 日々の生活の中で (Joni Mitchell / Both Sides Now) 勧誘になびかない私に彼は「他の子はちゃんと話を聞いてくれるのに○○(私の名前)さんはどうしてそういう態度なの?なんか、雰囲気変わったよね」と言いました。 確かに私は高校卒業後、東京で極貧生活を送ったり海外で治安の悪いところに住んだり、いい人にも悪い人にもいっぱい出会って人間に対する知恵も付き、高校生の頃のままではないはずです。 きっと、失ったものは、innocence。でもその代わり、以前より正確な判断力が付いているはず。彼が指摘する“雰囲気変わった”は、このことなんだろうな、と思いました。 Bows and flows of angel hair 弓や 流れる天使の髪 And ice cream castles
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流されてもいいのかな
「~したい!」という自分のこだわりよりも、その時その場で悩まず勢いに押されて決めたことの方が、結果的に良かったりします。 流されてもいいのかな、むしろ、流された方がいいのかな。
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ひきこもり
中日新聞日曜版「世界と日本 大図鑑シリーズ」が大好きです。毎週とても面白いです。“学校の教材に役立つ大図鑑”という副題がニクいです。そんな副題付けられちゃ、見逃せません。 さて、今日の日曜版の特集は「ひきこもり」でした。記事の中で「周囲にひきこもりの人がいるか」というアンケートに「いる」と答えている人が29.2%いました。 実は、私もその29.2%のひとりです。私のいとこがひきこもっています。彼はすでに40過ぎで、ひきこもって15年近くになります。 最後にいとこを見たのは5年前、バンクーバーから日本に帰り、伯母さんにカナダのおみやげを渡しに行った時です。駐車場から玄関に向かって歩いていく途中、建物の角の部屋に強い西日が当たってレースのカーテン越しに部屋の中が丸見えになっていたのでふと見たら、そこに無表情で私を見つめるいとこが立っていました。多分、そこがいとこの部屋で、彼はカーテンを閉じているので部屋の中が見えていないと思っていたのではないでしょうか。 カーテン越しに見たいとこは、すでに“おじさん”という風貌でした。それ以前に彼を見たのは15年くらい前だったので、私の中で“青年”だったいとこが、いきなり年を取って現れたようで、かなりビックリしました。 ひきこもりは、大方その家族に問題があると言われています。そのいとこの家庭も問題を抱えています。でも、一番辛いのは、多分本人。すごく苦しんでるんじゃないかな。 思い切って外へ連れ出し、そのまま飛行機に乗せてインドに連れて行き、インド人とビールを飲んで大いに語らい合わせてやりたいです。そうすれば、大抵の悩みやこだわりは吹っ飛ぶのに(どんなに深刻な問題でも、キャツラにかかれば「毎日メシが食べれて屋根の下で眠れる?十分幸せじゃん、悩むことなんてあるのかよ」と怒られる)。 そしてもう一度、自分の足で歩き出す決心をしてほしいのですが・・・。 何もキッカケがなければ、あと5年、10年、それ以上、社会から隔離されたあの部屋でずっと過ごすことになるのでしょうか・・・
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春間近
先週の日曜日の休日出社の代休を取って、運転免許証の更新に行きました。 新岐阜からバスに乗って(ペーパー10年なので、車で行けないのよ)はるばる40分、久しぶりの三田洞の岐阜運転者講習センターです。国外運転免許証を作りに来て以来なので、なんと5年ぶり。 更新受付のところで、「更新手数料と交通安全協会協力金、合わせて4,450円お願いします」と言われました。協力金?なんじゃそら?と思ったので、「ハガキに書いてある更新手数料しか持ってきてません」と言ったら、協力金はあっさり免除してくれました。なーんだ、払わなくてもいいものなのね。“ぼったくり天国”インドで身に付いた警戒心が、ここで役に立ちました。(No More Extra Money!) 帰りにモスバーガーに寄って、モスバーガーとミネストローネをいただきました。少しの間、窓の外の下校中の高校生をぼぉーと見ながら、おだやかな時間を過ごしました。 こうして、のんびりするの、久しぶり。初めて、風が暖かくなってきているのに気が付きました。いつも、夜明け前に家を出て、帰りは10時近くだから、まだまだ外は寒いとばかり思ってました。 春、間近です。
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29歳の誕生日
今日は私の29歳の誕生日です。 Happy Birthday to me♪ 20代も残りあと1年です。 先週、短大の学校パンフの取材で3人の先生にインタビューをしたのですが、その中の一人、女の先生のインタビューで、「学生の卒業後の進路」の話題がいつの間にか「女の人生」になり、彼女の聞き上手に乗せられ(ついでにカメラマンが席を外していて二人っきりだったので)、つい、「頑張り過ぎて、時々しんどくなります。そういう時はquitしないようにスローダウンさせてなんとか乗り切るけど、結構、ツライです」と、胸の内を吐露してしまいました。 そしたら一言、 「あなたぐらいの年頃は、目標に向かってがむしゃらに頑張れる時期じゃない。まだまだこれからよ、頑張って!」 と、励まされました。 そして、彼女が今の教職に就く前の紆余曲折話や、その時悩んだり迷ったりしたことを聞かされ、インタビュー終了の時間が来た頃には、なんだかとっても楽になりました。(結局、1/4は悩み相談に・・・) ワーホリ中に出会った陽気なカナダ人のアンディも同じことを言います。「君は、まだまだこれから。立ち止まらず歩み続ければ、必ず得るものがあるよ」と。 そうなのかなー?そうなんだろうな。だって、彼らがそう言うんだから。 だったら、頑張ってみようかな、と思っています。
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得意・不得意
昨日、短大の学校案内パンフレットを作るため、コーディネーターとデザイナーとカメラマンと私の4人で、短大へ取材に行きました。 今回の私の仕事は、教授と学生にインタビューをし、パンフに載せる記事を書くこと。今日は会社で昨日行ったインタビューの記事を書いていたのですが、その作業中に短大からちょっとショックな電話が入りました。 その電話とは、「次回の取材は、カメラマンを交代するように」というもの。 昨日取材に同行したカメラマンは、人間相手の撮影はあまり経験がないようで、プロのモデルでもない被写体に対し、「楽しそうなポーズをして」「もっと元気な動きをして」と非常に曖昧な指示しか出せず(素人相手に撮影する場合は、「カバンを肩に掛けて体を少し左に向け、視線はこっち」など、具体的な指示を出さなくてはいけない)、そのため撮影する方・される方の呼吸が全く合っていませんでした。はたから見ても、「あんま、いいカットが撮れてないなぁ」とは思っていたけど、まさかクライアントから直に苦情が来て仕事を降ろされるなんて、なんだかちょっと気の毒。結局、次回からは同じスタジオの“人物撮影が得意な”カメラマンに来てもらうことになりました。 人には、得意・不得意があります。 私もついこの間、苦手なジャンルのコピーライティングを引き受け、頑張ってコピーを作ったものの、それがデザイナーの期待していたレベルに達していなかったため、「出来ないんだったら、最初から断ってよ。そうしてくれればこっちも他のコピーライターを頼むことができたのに!」と、怒らせてしまったことがありました。泣きそうになりました。 それまでは「どんな仕事もとりあえず引き受けよう。経験は自分の力になるから」と思っていたけど、そのことがあってから考えを改め、「自分が自信を持って出来ないコピーは、最終的に仕事全体のクオリティを下げてしまうことになるから、内容によっては断る(それが得意な他のコピーライターを紹介する)ことも必要だ」ということを、痛感しました。 そればかり言っていたら仕事にならないけど、やっつけで取り掛かってしまうと最悪になってしまうのがコピーライティングという仕事の難しさ。オールマイティになるには、もうちっと修行が必要。・・・精進しないと。 というか最近、Webの仕事してないです。私、Webディレクターなのに!
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貝4つ
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インドの底力
今日、中国にアウトソースしたデータ作成の仕事を納品しました。ほとんどの作業を中国側がやったのにもかかわらず、中国側の請求額がとても安かったのでウチの会社はボロ儲け。みんなで大笑いしました。 そこで思い出したのが、「インドもアウトソース天国」だということ。 アメリカのIT産業が賃金の安いインドにアウトソースを出すようになり、そのためアメリカ国内の技術者の解雇が激しいというのは有名な話です。私はそれをニュースで少し知っていた程度でしたが、今回の年末年始のインドの旅で、香港からムンバイに行く飛行機で隣の席になったバンガロール出身の「携帯電話販売で世界中を飛び回る」インド人の男の子や、ムンバイからプネーに行くバスで後ろの席にいた「デリーのコールセンターで働く英語がビックリするほど完璧な」インド人の女の子と出会い、私の中で「優秀なインド人は、マジで優秀、驚異的」と印象付けられ、外国の需要を吸い取るインドの力にちょっと納得しました。 現在、インド政府はインド人の数字の強さを生かすため、理系の大学の増設を積極的に進めているそうです。インドでは毎年310万人が大学を卒業していますが、大学の増設によりその数はあと10年で倍増するらしいです。 ただ、インドの現状は私の目で見た限りその貧困具合はハンパでなく、人口一人あたりの所得は460ドル(2003年)、3億人が1日1ドル以下で生活し、10億人いる国民の3分の1以上が非識字者です。第三世界に共通する“官僚・役所の腐敗”はここも例外ではなく、公共サービスは賄賂(心付け)を渡さないと何もやってくれず(とインド人が言っていた)、警察も決して信用できるものではないらしいのです。評価されているアウトソースも含めたITサービスは総労働人口の1%未満と、現実はまだまだ・・・。 でも、 私がいろいろな国を転々としていつも痛感したのは、「数の多さは決定的な強さ」だということ。インドは近い将来、中国を抜いて世界一の人口国になります。現在、安い賃金で外需をガッチリ取り込んでいるだけだけど、まだ未熟な国内の消費活動の基盤さえ整えることができれば、内需はこの先いくらでも拡大するのでは。 適当な予測だけど、impossibleでもないよね?
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インドの新聞と香港の新聞
インドの新聞と香港の新聞
By may
私は外国を旅行する時、必ず現地の新聞を読むようにしています。なぜかというと、ひとつの事実の報道の仕方が、国によってどう違うのか知りたいからです。それを知るのに新聞はもってこいの媒体で、その国を去る際は、飛行機に搭乗する前に必ず売店で新聞を買い、帰りの飛行機の中でそれを読むようにしています。 インドの新聞は、Mumbaiで泊まった(というか荷物を置かせてもらった)Hotel Diplomatが毎朝客室に新聞「The Times of India」を入れてくれるところだったので、売店で買う手間が省けました。このThe Times of Indiaは英語の新聞で、比較的地元ネタより国際情勢記事が多く、インドの上流階級や海外からの駐在員向けの内容かなというカンジです。芸能欄は、テレビ番組がアメリカからの輸入物が多いためか、非常にハリウッド慣れしてました。 帰りはクアラルンプールと香港経由だったのですが、香港の搭乗口で新聞が用意されていたので、思わず条件反射でピックアップしてしまいました。 この新聞は「東方日報」という広東語の新聞で、アメリカの新聞の日曜版のようにジャンルによって束が分かれた、とても分厚い新聞です。芸能(Entertainment)の束にはブリのラスベガス55時間結婚の記事が、地元ネタの束には香港の電車の中での痴漢撃退方法、経済の束には伊藤忠のビバレッジ産業の中国進出の記事が載っていました。
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インド人の手は冷たい
インド人の手はとても冷たいです。この時期のムンバイは、夜は20℃弱になりちょっと肌寒くなります。私の体は寒さに反応して若干発熱するものの、インド人の体は気温に合わせて何の抵抗もなく冷え込んでしまうようです。さすが、Hot・Hotter・Hottestの国。寒さに耐性がないようで、気温といっしょに冷え込んでしまうようです(変温動物?)。 そのせいか、ムンバイの友達はちょっとでも冷え込むと、やたらブルブル震えていました。そんな日は「It's cold tonight, Hah?(Hah?をやたら強調して言うの)」が挨拶代わり。でも、日本人の私は20℃を寒いと思えません。彼らが長袖を着ている中、平気な顔で半袖を着ていたら「風邪をひく」だの「上着を貸す」だの、やたら心配されました。 (平気だってば!)
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インドのカースト制度について
インドのカースト制度について。 インド社会には、司祭階級の「バラモン」、その下に王族、武士階級の「クシャトリア」、農民や商人等の庶民階級の「バイシャ」、奴隷階級の「シュードラ」の4段階の身分階級があり、その中にさらにジャーティと呼ばれる職業別の身分差別があります。基本的に子供は親の仕事を世襲しなくてはならず、自分で職業を選ぶことができないといわれています。現在、インドの憲法で不可触民の差別、カースト全体の差別の禁止が明記されているけれど、やはり結婚や職業の選択時にとても影響があるらしいです。 私はたった8日間インドに滞在しましたが、それでも時々カースト制度について考えさせられることがありました。 例えば、インド人は初対面で名前を聞いた後に必ず職業を聞いてきます。そういう時私は「ホームページを作ったり、記事を書いたりしてる」と答えていたのですが、するとインド人は「Nice!」と言ってやたら当たりが良くなるのです。最初、何も分からず「ふふっ、そう?」といい気になっていましたが、実はそれは「やっていること」についてNiceと言っている訳ではなく、「IT系の職業に就ける(社会的な)身分」についてNiceと言っていることに、途中で気が付きました。 インド人は、相手の位を判断すると、それ相応の態度で接してきます。私のような外国人相手だとそれほど顕著に出してくることはありませんが(というか、私が身分の高い人だと勘違いされていたからかも)、インド人同士だとそれが非常にあからさまだったりします。 ムンバイで友達になった私の“飲み仲間”は、私のような外国人相手にお酒をおごれるだけあって、そこそこ金持ち連中でした。しかし、その彼らの中にもさらに微妙な区別がありました。 例えば、最後の日に私をレストランに連れて行ってくれてご飯をおごってくれた19歳の男の子に、「いろいろ良くしてくれてありがとう。日本に帰ったらメールするから、あんたのアドレス教えてよ」と言って紙とペンを渡したら、なんと紙とペンをそのまま隣の連れの子に渡すのです。「違う、違う。彼のアドレスではなく、あんたのアドレスが欲しいっちゅーの」と言ったら、「今、彼が僕のアドレスを書くから、待ってね」と。 「オイオイ、お前のアドレスだろ?自分で書けよ」と思ってしまいました。 いろんな文献を読む限り、カースト制度は(インドの社会にとって)悪い面ばかりではないとは思うんだけど、それはそれで置いといて、一人の若者の自尊心を人格的に何の根拠もなくただ肥大させる要因になってしまっているのはどうかなぁ、と思ってしまいました。 (友達だからフォローするけど、この子は人の気持ちを察して言葉をかけることができる優しい子です。身分で持ち上げられてしまう環境が悪いのです)
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インド8日目
さて、インド最終日です。 ボンベイで出会った友人らと一緒に一体どこか分からないインドの田舎に滞在して3日目となっており、本気でひとまずホテルに帰らないといけない状況になっていました。ホテルにとって私は行方不明になっているからです。オーナーも心配しているに違いありません。 朝8時半に起きてホテルに戻るため身支度をしようとしたところ、昨日の夜に足元に置いたブラがありません。「あれ?ここに置いたのに・・・」布団を全部引っ剥がしてもやっぱりありません。友達に「私のブラがない」と言ったら、「よし。アパートを大捜索しよう」ということになりました。私のブラは、隣人が取り込んだ洗濯物の中から発見されました。それからアパートを出るまでの間、みんなに何度も背中のブラ線をパチパチつかまれ、「よっし、maeはちゃんとブラを着けてるな!もう無くすなよ!わっはっはー」とからかわれ続けました・・・。 昼過ぎ、3日ぶりにホテルに戻ったところ、オーナーが私の姿を見て非常に驚き、「今、警察に“宿泊客が帰ってこない”ってレポートするところだったんだよ!無事で良かった・・・。外泊するなら、連絡くれなきゃダメだよ」と怒られました。そして「ヒドイ目に遭ったりしてない?大丈夫だった?」と聞かれたので、デジカメの中の友達との陽気な(アホ)写真を見せて安心させておきました。それから今夜出発することを告げて出発時間のタクシーの手配をし、宿泊料金を精算しました。 部屋に戻って自分の荷物を確認し、3日ぶりに髪と体を洗いました。ベッドで少し仮眠を取り、夕方にシーサイドまで出てそこらでたむろっている友人らに「今夜、日本に戻る」と話をして回りました。みんなに「今夜なの?」「あと2、3日ステイできないの?」「今度いつムンバイに戻ってくるの?」と何度も同じ質問をされました。「今夜のフライトで日本に戻らないといけない」「仕事があるから、これ以上滞在できない」「今度来るのは、多分来年。次は長期滞在にしたい」と答えて回りました。 夜中の12時を過ぎた頃、「機内食の時間を考えて、今のうちにちょっと何か軽く食べておきたい」と言ったら、近所にある彼らオススメのレストランへ連れて行ってくれました。そこでマサラとナンを食べ、インドのストロングなタバコを一緒に吸い、「これで僕らを思い出して」と身に付けているブレスレットやらカエルのおもちゃのキーホルダーやらをもらいました。 出発15分前にホテルに到着するよう送ってもらい、インド人にとってToo Friendlyと分かっていながらも思わずハグして、みんなと別れました。ホテルの部屋に戻って一人になると無性に寂しい気分になってベッドに倒れ込み、思わず「みんな、なんていい子なのー?ここを離れたくないよー」と声に出して言いました。しかしその瞬間、それまで英語(と片言のヒンディー語)で過ごしてきたのに突然自分が日本語を喋ったことで我に返り、「ここはインド、私の国じゃない。日本に帰り、自分の生活に戻らないと」と自覚しました。 帰りの飛行機の出発を待つサハ-ル空港は、インドとは思えないほどとても寒く、私のバケーションも終わりなんだなぁ、と思いました。
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マッチャラ
「マッチャラ」は、ヒンディー語で「蚊」のことです。 ムンバイは元々マラリアを持つ蚊が多くいた湿地帯を埋め立てた都市です。ダウンタウンは都会で蚊が少ないのか全く刺されなかったけど、友達のお姉さんが住むMira Roadに行ったら異常に刺されまくりました。 ムカつくのが、インド人の友達らは誰一人全く刺されず、私だけ刺されていたこと。「なんでmaeだけ刺されるんだろね?日本人の血って、美味しいのかなぁ?」と言ってみんな笑っていたけど、こっちは痒くて痒くてたまんないんだよ! 「No more マッチャラ~!」が口癖になりました。
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名前はまだありません
友達のお姉さんに生後2ヶ月の赤ちゃんがいたのですが、その子にはまだ名前がありませんでした。 母親であるお姉さんに 「じゃあみんな、この子をどう呼んでいるの?」と質問してみたら、「We just call her "BABY"」とのことでした。 インドでは、子供の名付けはある程度大きくなってから行うそうです。お姉さんも、「名前を付けるのは、もうちょっと大きくなってから」と言っていました。
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インド7日目
ホテルに連絡しずに酔っ払ってソニヤのアパートに泊まってしまったので(連絡しようにも電話がなかった)、一度ホテルに戻ろうと昼前にアパートを出て列車でダウンタウンに向かいました。しかし、途中で他の二人が「お腹すいたよね?」と話し始め、途中下車して食事することにしました。 その途中下車した駅は友達のお姉さんのアパートの近所だということで、いつの間にか「お姉さんちに遊びに行こう!」ということになり、お姉さんの旦那さんである義理のお兄さんに駅まで迎えに来てもらい、お姉さんのアパートに行くことになりました。 アパートは2ベッドルーム&キッチン・バス・トイレで、もうひとつのベッドルームを他の若夫婦が間借りしていました。その間借りしている夫婦の奥さんは、なんと日本人とインド人の混血。20数年前にインドに旅行者として日本人のお父さんがやって来てインド人の彼女のお母さんと結婚したそうです。しかし、彼女が小さい頃に両親は離婚してお父さんは日本に帰ってしまったそうです。 結局、その間借り夫婦とお姉さん夫婦、そして友達と私とで1日中アパートで話をしながらだらだら過ごしました。 間借り夫婦の旦那さんはいつか日本に行きたいらしく、日本に行くにはどうやってビザを取ればいいのか熱心に聞いてきました。私は日本人が他の国のビザを取るにはどうすればいいかは詳しいけど、外国人が日本のビザを取る方法についてはよく知りません。というか、彼の奥さんは日本人の血が流れているので、彼女と一緒に日本に行けばノープロブレムのはず。そう言ったら、奥さんは日本行きには反対とのことでした。 あっという間に夜になり、お腹もすいたので近くのバザールの屋台で夕飯を食べることになりました。みんなのお気に入りのチャイニーズ屋台に行き(もちろん料理を作るのはインド人)、私は“ジャパニーズ・ヌードル”を頼みました。出てきた料理はどこがジャパニーズなんだか分からなかったけど、それなりに美味しかったです。 食も進み、いつの間にかお姉さんの旦那さんが買ってきたビールとウイスキーを男連中が飲み干し、追加が欲しいということになりました。しかし酒屋は屋台からバイクで15分ほど走ったところにしかありません。酔っ払った旦那さんがバイクに乗ってお酒を買いに行こうとするので私はそれを引き止め、私も一緒に2ケツでバイクに乗るんだったらいいと言い張り(だって危ないんだもん!)、舗装されていないインドの田舎の道を酔っ払いと一緒にバイクで走ることになりました。酒屋に到着し、旦那さんに「おうっ、オメーも飲めよ。何がいい?」と聞かれたので、「キングフィッシャー、マイルドで」と答えました。(三晩続けてキングフィッシャーです・・・) 屋台のご飯が済んでからバザールに来ていた移動遊園地で少し遊び、その後アパートに帰りました。アパートに帰ってから部屋を暗くし、音楽をガンガンにかけて踊りながら残りのお酒も飲みました。夜も遅くなり、私は明日インドを発つことになっていて寝坊するわけにいかなかったから、みんなより先に寝させてもらうことにしました。そしたら、友達のお姉さんに「寝る前に、今財布の中にいくらあるか教えて」と言われました。「200ルピーだけど・・・」と答えたら、「200ルピーね。じゃあ、その財布とあなたの荷物をカギ付きスーツケースにしまうから」と言い、私の荷物一式(と言っても、ポシェット1個)をスーツケースの中にしまいました。その横で友達がこっそり「同居人が盗み癖があるから、念のためなんだよ」と教えてくれました。 みんなが話をしているすぐ横で私が寝転ぶと、会話が一斉に英語からヒンディー語に変わりました。何を言っているかは分からないけど、好意的に受け入れられてることは確かだったので、安心して眠りにつきました。
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熱心でないイスラム教徒
熱心でないイスラム教徒
By may
ムンバイで、20歳の俳優のタマゴと友達になりました。彼はアッサム出身で、俳優になるために16歳でムンバイに出て、今はエージェント回りをしながら仕事を探しているとのことでした。見た目、微妙にロジャー・マニング似。しかし、かなりルックス・ナイスでした。 ある日、その子と飲んでたら突然、「実は僕、ムスリム(イスラム教徒)なんだよ」と打ち明けられました。インド人は大多数がヒンズー教徒で、インド内でイスラム教徒に会ったのはこれが初めて。(ちなみにこの子は、スンニ派だそう) しかし彼は、1日5回メッカの方向へお祈りはしない、コーランもよく分からないというかなり熱心でないイスラム教徒。「イスラム教徒というだけでテロリスト呼ばわりされるから、ヤダ」とか「インドではヒンズー教徒とイスラム教徒の紛争が絶えなくて、少数派の僕らは居心地が悪い」と言っていました。 熱心でない、イスラム教徒。 私がカナダに住んでいた時のルームメイトのイラン人も、非常に熱心でないイスラム教徒でした(ちなみにこの人は、シーア派)。約半年間一緒に住んでいましたが、お祈りをしてたところを見たことなかったし、牛肉だとウソついて豚肉を食べさせても「豚肉?!キタナイ、キタナイ」と言う程度で、あまり怒りませんでした(普通のイスラム教徒だったら、激怒するのに)。 信仰の度合いは人それぞれ。しかし、一度でいいから敬虔なイスラム教徒に会ってその世界観を聞いてみたいな。
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マッチョに憧れる?
マッチョに憧れる?
By may
これは、ムンバイ大学近くの路上本屋さんです。平積み台の手前角に注目!(画像をクリックすると拡大表示)、マッチョな写真が勢揃い! これを見つけた当初、「な、なぜ、街角にマッチョ???」とおののきましたが、あとでインド人の友達に聞いてみたところ、マッチョはインド人男性のほのかな憧れだということが分かりました。 インド人は痩せてます。栄養不良で痩せている人も多いけど、それだけでなく、元々とても骨が細いです。男も女も、胸板薄過ぎ、ウエスト細過ぎ、お尻小さ過ぎです。腰痛とか大丈夫なのかな?って心配してしまうほど、みんな細いです。その上、肉があまり付かない体質らしいのです。 反面、白人の中には何もしなくても自然にムキムキ(ムチムチ?)になる人がいます。人種の違いなんでしょうね。ちなみに、日本人は30近くになると油断して、プヨプヨ系になる人が結構います。これも、人種的特長なのでしょーか?
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インド6日目
インド6日目
By may
この日の待ち合わせには45分遅れて行きました。そしたらさすがに怒られました。Too Lateだったようです。インド時間は30分まで、と学びました。 さて、今日は昨日いっしょに飲んだ子に「みんなに紹介する」と言われていたとおり、シーサイドを歩きながら何十人かに「Nice to meet you」しまくりました。みんな私を見ると「あーっっ、カウントダウンの時のあの子だ!」と言います。いつの間にか私、有名人になっていました。 その中で、ソニヤという女の子に会いました。インド人の女の子にしては髪型がショートカットと珍しく、服装もパーカーにジーンズととてもボーイッシュなスタイルの女の子です。その上、男の子らは彼女のことを「He」と呼びます。「彼女、女の子だから“She”でしょ?」と言ってもHe扱いです。ソニヤもそれがいいみたいです。非常に明るく、マシンガンのように喋り、なおかついつもニコニコした素敵な女の子で、あっという間に仲良くなりました。そこで、今夜は彼女のアパートで飲み明かそう!ということになりました。 チャーチゲート駅から列車に乗り、はるばるGoregaonの彼女の家に、もう一人友達を連れて3人で行きました。彼女のアパートに着いてビックリ!なんとソニヤは、サウスアフリカン7人の男と同居していたのです。そのうえ部屋も“トレスポの死にかけたトミーの部屋”みたいな、家具が一切なく、汚れた床の上に直接ベッドマットレスが置いてあり、たくさんのスーツケースが部屋の隅に積んであるようなところでした。 それを見て最初は「実はソニヤは危険な子?あわわわ・・・」とビビッたけど、部屋にいたサウスアフリカンらと喋ってみたところ、彼らは世界中を旅するタフガイで、ソニヤはそんな彼らに安くアパートの一部を貸しているようでした。タフガイ達は「いつか日本に行くから、そん時はよろしくねー」と人懐っこく、結構いい人たちでした。 そこで、近所までビール(またもやキングフィッシャー)を買いに行き、みんなで飲みながら夜遅くまで話し込み、そのままほろ酔い気分でソニヤのベッドで眠りました。 (夜中に息ができないほど苦しくて目を覚ましたら、ソニヤにカニばさみされてました・・・)
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インドの英語
インドは、意外と英語が通じます。 行く前に、「観光業の人は普通に英語を話す」とは聞いていたけど、まさか一般人もあんなにガンガン英語を話すとは思っていませんでした。さすが、元・英国植民地です。 しかし、なまりがとてもキツイです。 Rで舌を回しまくります。「Thirty(30)」が「ターティ」だったりします。「You guys」でビックリされます。「Bud」が通じません。「Damn it!」と言ったら怒られます(「口が悪い」って)。でもって、「OK」が「ティーケー(英語の「OK」とヒンディー語の「ティーク ハエ(OKの意)」がいっしょになった造語)」だったりします。 でも、意思の疎通はほとんど問題なかったように思います。こっちが喋る「日本語なまり英語」をバッチリ理解してくれていました。
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くさくなーい
インドに行く前に、「インド、臭いよ。覚悟して」と聞いていたけど、実際、全然臭くありませんでした。 ムンバイは都会で野良牛がおらず、糞系のニオイは全くなし。乾燥して舞った砂のニオイや、強烈な車の廃棄ガスのニオイ、そして、どこからともなく漂ってくるカレーのスパイスのニオイの3つが印象に残っています。 なので、嫌なニオイは特にナシ。 池袋東口に時々むわっと漂う強烈なメタンガス臭の方が、よっぽど臭と思うのです。
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インド5日目
インド5日目
By may
2004年、あけましておめでとうございます。昨日が昨日だっただけにちょっと寝坊して9時半に起きてしまいました。しかし今日から4日間、完全にバケーションターイム!時間たっぷり、何でもできる自由な時間!サイコー!キャー!! ルームサービスで朝食を取り、昨日までの“友好の”パンジャビードレスを脱ぎ捨て、身軽なTシャツ&ダボパンツでホテルを出て、ムンバイの街をガンガン歩きました。昨日ちょろっと足を踏み入れ「キケンっぽい」雰囲気だった地域にも、「日が出てるうちは、大丈夫だろう」と、あえてもう一度行ってみたりしました。 とにかく気の向くままさんざん歩き回り、気付けば午後6時半。「7時からTVでフレンズやるから、一回ホテルに帰ろ(←インドに来てまで、フレンズ見んなよっ)」と思い、チャーチゲート駅前の大通りを信号無視して渡っていたら、同じく信号無視して車に轢かれそうになりながら追っかけてくるインド人若者2人がいます。「ちっ、ナンパかよ」と思って早足で振り切ろうとしたら、「君、君、昨日のカウントダウンの時、タージの前にいたろ?(英語)」と声をかけられ、思わず足を止めてしまいました。 「うん。いたよ」 「あん時、インディアンドレス着てたろ?ムンバイに住んでるの?」 「ううん、ツアリスト。パンジャビードレスはプネーで買って昨日まで着てただけ」 「そっか。昨日みんなで君を見てて、何であの子インディアンドレス着てんだろう?と喋ってたんだよ。君、日本人?」 「うん、日本人」 「プネーから来たの?」 「うん。」 「オショーコミューン行った?」 「ううん。コミューンの近くのホテルに泊まっていたけど、時間がなくて行ってない。あそこ、そんなに有名?」 「うん、有名」 「宗教なの?」 「いや、宗教ではなく、スピリチュアルなところ。面白いらしい」 と、不覚にも話が弾んでしまいました。 とりあえず、フレンズが見たい(あと、お腹も空いてた)ので8時に近くのシーサイドで待ち合わせをして、いったんホテルの前で別れました。8時15分、待ち合わせ場所に行ったら「You came here on time!」と褒められました。「15分遅れなのに“時間通り”と褒められた!これがインド時間なのね!」と思いました。 チャーチゲート駅の地下道の酒屋でキングフィッシャー(インドの瓶ビール)を買って、それをラッパ飲みしながらマリンドライブを歩きました。手短にインドに来た理由を説明すると、ちょっと感心されました。話を変えて彼らの年齢を聞いたところ、なんとハタチ!「実は私、28。」と言ったら「You looks so young...Like a teenager!」ってかなりビビられました。「そうよ、イーストエイジアンは若く見えるんだから。でも、お姉さんはね、あんた達より長生きしてんだから」と、威圧的に場の主導権を奪い、挙句の果てに遠距離の彼女に浮気されたインド人の男の子に「女は一人だけじゃない。あんたが地元に帰る気がないんなら、その子と別れたら?いつかRight Oneが現れるから大丈夫だって!だからいつまでもウジウジすんじゃねー」と、説教してました。 そうこうしてる間に夜もふけていたので、ホテルの前まで送ってもらい、「明日もまた遊ぼーね」と言って別れました。 ひょんなことで、友達ができちゃいました。
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Hotel Diplomat (Mumbai)
Hotel Diplomat (Mumbai)
By may
12/31-1/4の間宿泊することにしておきながら、結局ホテルには荷物だけ置いて友達のアパートに泊まり歩き、非常にもったいないことをしてしまったHotel Diplomat。 場所は「ムンバイで知らない人はいない」といわれる超有名&高級ホテル、タージ・マハルの裏。ムンバイ初めてでも迷わず行けて、周りにいろいろなお店があるので、ロケーションはサイコーです。 しかし、宿泊代が高い。ムンバイは地価が東京以上らしく、どのホテルも軒並み高くて、このHotel Diplomatはロケーションの割には安いと言われるけれど、それでも「やっぱ高いなぁ」というカンジ。 シングル一泊Rs.1,776。 私が泊まり歩いた友達のアパートは、Goregaonのアパートが3ヶ月Rs.1,000(これは安過ぎ)、Mira Roadで1ヶ月Rs.1,000でした。友達に、「Hotel Diplomatに泊まってる。一泊Rs.1,776」と言ったら「一泊の宿泊代がウチのアパートの家賃より高い!うがあ!」って悲鳴をあげられました。 あと、 バスタブ無しシャワー。使い始めはお湯でも、だんだん水に変わります(夜はそれがちょっと辛い)。 TVのリモコンが壊れ気味。 部屋の家具が非常に素っ気ない。 あらら?いいとこナシだわ。でも、宿泊代が高い分、従業員さんはとてもナイスです。
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