今日のヨガクラスが終わった後、インストラクターさんに声を掛けて、前々から気になっていたこと、「キリスト教徒にヨガは受け入られるものなのか?」を聞いてみました。
ヨガの概念は、どちらかというとインド起源の仏教やヒンデュー教に通じるものがあります。反対に、キリスト教とは考え方がまったく異なっている部分(例えば、ヨガ→輪廻転生、キリスト教→復活、など)があります。
カナダはキリスト教の国(あちこちに教会がある)で、きっとキリスト教徒がヨガを始めることもあると思うのですが、キリスト教徒のヨギーさんはヨガを通してキリスト教で否定されていることを教えられた時、一体どうするのだろう?とちょっと気になっていました。
インストラクターさんの答えは、「人によりけり」でした。自身のキリスト教への信念は変えずにうまくヨガと付き合える人もいれば、ヨガに嫌悪感を感じて止めてしまう人もいるとのことでした。
彼女の意見は、
「ヨガの起源のVedasは3000年前(キリスト教以前)から存在していて、その内容は「人がどうあるべきかを唱える哲学」と「人々の生活に役立つサイエンス」だった。当時、Vedasはとてもポピュラーで、イエス・キリストもVedasを学び、実践していた。もちろん、古代の聖書にもVedasの概念が取り入れられていた。しかし、キリスト教は時を経て多くの言語に訳されるうち、抽象表現(abstract conception)や暗喩(metaphor)の解釈が変えられてき、そのうち、教会が組織化され、国家へ取り入れられるに伴い、さらに「統治する者」の都合のいい解釈に変えられていった。ヨガの元のVedasは、キリスト教の数千年も前に確立されていたもので、その概念は聖書の元にもなっているにもかかわらず、今ではそれら2つの概念に差異があるのは、聖書が変わってしまったせいである。
宗教は、あまりに熱心になり過ぎると、自分の宗教が唯一神、自分の宗教だけが正しい、異教徒を自分の宗教へ改宗させるのは相手を救うことだ、と信じて周りを省みることができなくなってしまう。うちのヨガスタジオにも、おじさんが聖書を持ってしょっちゅうやって来る。とてもしつこくて、正直、営業妨害(笑)。そのおじさんに、「ヨガの元のVedasは、キリスト教の数千年も前に確立されていたもので、その概念は聖書の元にもなっている。今の聖書は解釈はオリジナルとはもうかけ離れてしまっているから、聖書よりVedas勉強したら?」と言ってあげたい。実際、言えないけどね(笑)。彼は、オリジナルの聖書ではなく、今の聖書が好きなのかもしれないしね。
私の考えは、自分が信じるものがあれば、それを自分の中でこの先しっかり持っておけばいい。でも、新しい概念を知り、それを受け入れることにより自分が向上できると思ったなら、それもどんどん受け入れていった方がいい。時代は変わり、状況は変わり、自分自身も変わり続けている。だから、自分の支持する概念もそれらに伴って変わっていった方がいい。むしろ、変えていく努力をした方がいい。ひとつの概念を頑なに支持し、他を受け付けられなくなってしまうよりは、柔軟であった方がいいはず」
とのことでした。
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