私は、バンクーバーでは“ゲイ(同性愛)・ストリート”として有名な「Davie St.」に住んでいます。
だから、うちのアパートにゲイの人がいっぱい住んでいるし、外を歩けば普通に男×男、女×女のカップルが手をつないで歩いています。日本では考えられないことだけど、ここではこれが日常です。それぞれの国・街で肩身の狭い思いをしてきたゲイ達が、普通の人と同様に自分らしく生きるためにここに移り住んでくるので、Davie付近はゲイの人たちでいっぱいです。
先週、外出した時、アパートを出て1ブロックのところで、日本人らしき中年女性に、「あなた、日本人ですよね?よろしかったらコレを読んでください。ゲイに関する大事なことが載っています」と、日本語で書かれた薄い冊子を渡されました。
それは、ある有名なキリスト系の宗教雑誌の日本語版でした。中年女性が言っていた“ゲイに関する記事”のタイトルは、「若い人は尋ねる・・・ 同性愛-どうすれば避けられるだろう」。内容は、「昨今、メディアにてゲイが肯定されているがそれは間違い。ティーンエージャーが経験する同性に対する性衝動は、メディアに影響されているだけ。それに惑わされず、聖書に書かれている通り同性愛を否定し、自分がゲイになるのを防ごう」というものでした。
でも、記事の中で「同性愛は間違った根深い欲望」と言い切り、しかし「同性愛が“遺伝か環境か”という議論について詳しく取り上げることはこの記事の目的ではありません」と、筆者が主張したいことだけを主張し、現実や関連する要素全てを無視して議論を進めているので、「記事として、これはダメだ」と思ってしまいました。
(今通っているクラスでは、論文をこのように書くと減点されます。主張する点、その理由、それに対する否定的な意見、全てをカバーした結論付けをしないと、それは“完璧な主張”とみなされないのです)
ゲイは、忌むものではないと思います。
彼らは存在する。そして、それは間違っていない。
人間は、神が思っている以上に複雑で(私は自分がその“人間”だから、十分過ぎるほどそれを知っています)、神の言霊を“人間が”記した聖書では説明できなほど多くの異なる人間が存在しています。なのに、キリスト教がイスラム教を否定したり、白人が黒人を否定したり、異性愛者が同性愛者を否定したりと、自分と異なる者を認めず排除してばかりいたら、それぞれの溝は深まるばかりだと思います。神と人間は全く違う存在だけど、宗教は違っても肌の色は違っても性嗜好は違っても私たちは同じ人間同士。それなのに、同胞に対する最低限の思いやりも持たず、自分だけの神の名を借り、一方的な主張を冊子に載せてマイノリティを責める行為は、とてもアンフェアだと思いました。
Davie St.でこの内容の冊子を配っていた中年女性は、「日本語だから大丈夫」と考えて配っていたと思うのですが、布教に盲目になり過ぎて、ゲイの人たちに対する気遣いが全くないように思いました。布教するのは自由ですが、差別に満ちた冊子をDavie St.で配るのは、かえって逆効果だと思います。
ちなみに、Davie St.付近の教会は違う宗派のキリスト教で、基本的に“ゲイ大歓迎”です。キリスト教は基本的に“間違いを犯した人を許して救う”救済系の宗教です。ゲイだからといって門前払いにはしないようです。
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